私の右手、右の指。
ヤニ臭い。爪の形がいびつ。左手より一回り大きい。
ケーキフォークで手元のモンブランを崩した。我ながら、弦だこのせいでいささか窮屈な印象を受ける。
「オリジナルかカバーか、聞いてなかったなァ。
メールで……いや、今日はいいか。作曲か編曲か、どっちにしろ大変だ」
大変だけれど、面白そうだ。メジャーでも滅多に見ない。あまり参考先も探せない。
だが、パートナーの心配は必要ない。かなり上等。
腕も十分。何よりスタイル、髪型、身長、私と瓜二つなのがおいしい。
「秋山澪、だっけ。ステージで並んだら見栄えよさそう」
綺麗な黒髪の娘。私と同じで長髪が腰まであるのは、私と同じくらいそれが映える長身だから。
わくわくする。
「あと、何よりレフティなのがいいなァ……。ポジションに気を使ったことはなかったけど」
ステージの立ち位置だなんて、ライブハウスなら適当で当たり前。けれどこれからは、シンメトリーを意識してみようか。
狭い店では押し込まれるように決め、シールドをめいっぱいに張って強引に取っていた立ち位置、新しいバンドでは澪と二人で決めるのだ。
自然とフォークを置いて、五線譜にペンを走らせていた。逸っている。
二小節書き上げ、メロディにぎっしり詰まった音符の一つ一つにコードを振ってから、ギターを殺す気かと苦笑して添削作業に入ろうとして、また苦笑した。
できるのだ、これが。キーボードの紬には泣いてもらおう。彼女には迷惑をかける。
新入生なりに先輩のあれこれを想像しながら部室を訪ね、まず全員卒業しているという言葉に驚いた。しかし、新入生同士で組めるのなら楽しい話でもある。
「けれど、あれは、驚いた。本当。むしろおいしい」
本当においしい。単純に被っただけなら諦めるところだった。澪がレフティなのも上等だ。
軽音の部室に一年生が三人集まって、一人がドラマー。二人がベーシスト。
どう考えてもドラマーの奪い合いになる場面で、しかも私ではないもう一人とそのドラマーが幼馴染という場面で、ベースを提げて立つ私と澪の姿は瓜二つだったのだ。
「これはツインベースしかないっ! いいじゃん、やってみようよ」とは田井中律。
そして合唱部の見学をと音楽室にやってきてしまった琴吹紬を丸め込み、入学時点では部員なしだった軽音部も現在四名。
顔も知らぬ先輩の卒業で廃部の憂き目を見たはずだが、なんとか部として申請できる人数でもある。
メンバーはBa1、Ba2、Dr、Ky。ボーカルもギターも居ないが、ギターの音はキーボードに、ボーカルはベースが兼任すれば良い。ツインベースでツインボーカルというのもありだ。
何にせよ、十分いける。
私は一息ついて、煙草に火をつけた。
「あー……おいおい汐ちゃん」
突然、マスターの声で自分の名を呼ばれた。行き着けの喫茶店だけあって顔見知りだ。
「何か?」
「いや、うちの店は狭いし、禁煙の席なんてありゃしないが……」
「え? いつも吸ってるじゃない。それとも趣旨換え?」
今座っているのも、長年かけて築いた常連の席だし、置いてある灰皿の傷には愛着すらある。
「汐ちゃん身長あるから今まで何もいわなかったけどな、その席道路に面してるだろ?
で、汐ちゃんはこないだから高校生なわけだが……」
そう言ってマスターは一拍置くと、小声で続けた。
「私服だった中学と違って、制服で帰りに寄って一服はまずいよ。外から見える席で」
確かにその通りだった。
私は慌てて火をもみ消した。
「いやァ……失礼しました。
この店で一番外から見えない席ってどこ?」
「いい機会だし禁煙はじめりゃいいんじゃないか。
見えないってだけならこの席がそこの……何ていうんだ、緑で隠れるんだが」
カウンター奥を指してから、店の中央にある大柄な観葉植物を指した。植物には詳しくないが、マスターも名を知らないらしい。
「じゃあ今度からそこに座ろうかなァ」
「やめろ。わりと人気席なんだ。日に何時間も占領されちゃ困る」
確かに、日に何時間も禁煙中のマスターに煙をぶつけるのは忍びない。
「まァ、吸う理由もなくなったし……。ホントに禁煙考えてみよっかな」
中学のころ、学校でメンバーが見つからず、楽器店のフリースペースに貼られた募集チラシから適当なバンドを選んだ。
全員社会人で愛煙家。ギターとドラムスは節度ある人だったが、ボーカルが面白がって中学生の私に煙を吹きかける人だったのだ。
最初は面白いように反応していたのだが、次第にばからしくなり、気づけば同じ柄を吸っていた。残りの二人に、ボーカルが散々責められていたのを思い出す。
製作ドラムス、撮影ギターの、ぼこぼこに晴れ上がった顔でピースサインを取るボーカルのアップ写真は、今でも机に飾ってある。
私の中学卒業にギターの転勤が重なって、先日解散した。
「あの子たちは当然、吸わないだろうし」
新しいメンバーの顔ぶれを浮かべる。そして気になるのが澪のこと。
私と立ち姿がとても似ていて、同じベース、そしてレフティ。
そのまま思考はライブシーンに飛ぶ。どんな演奏ができるだろうか。どんな曲を弾くだろうか。そしてどんなパフォーマンスができるだろうか。
ステージで散々に跳ね回るようなことは、なさそうだ。律はついてくるだろうが、澪と、特に紬を殺してしまう。まだ触れ合って間もないが、そのくらいは分かる。
根が純な人にパンクなパフォーマンスをさせてしまったときの居た堪れなさ。
私は知らないけれど、先のボーカルの高校時代の知人が凄い事になったらしい。
「大人しくて、でも目立つパフォーマンスとか……ねェ」
いっそのこと見た目勝負で行ってしまおうか。左右で開くように立つツインベースはインパクトがあるだろう。
「私と澪が全く同じ格好するとか。
利き腕が違うから、遠くのオーディエンスが見間違うこともないだろうし……って、そんなに広い箱で演奏する機会もないかァ」
ティーカップの底が見えて、律が武道館と騒いでいたのを思い出した。
「まァ何にせよ、禁煙しますか。もう卒業まで吸わない感じで。
……マスタァー、私禁煙するからね、咥えたら止めてちょうだい」
「お、決心ついたか。よしまかせろ」
「で提案なんだけどこの席、禁煙席にしない? 最初から灰皿ないやつ」
「そこ汐ちゃんだけの席じゃないから」
しばらく禁断症状に悩まされるだろうな、と恐々としつつ私は、煙が抜け切った後の、素のままの自分の作曲、演奏技術をどこまで鍛え上げられるか、とか。そういうことを考えていた。
「マスターこれいる? あと4本」
ライターの下に置いていたショートホープを見せる。
「いらん。儚い希望って縁起悪いだろう」
彼の銘柄はショートピースだったように記憶している。大差ない、むしろ酷い。
「じゃァ席に置いてって構わない?」
「……汐ちゃんのって言えば持ってく男は居るな」
「よしきた」
窓に立てかけておく。愛煙家の集まる喫茶店だから、誰か貰ってくれるはずだ。
そして貰い物のライターをポケットに入れる。これを点す機会は随分減るだろう。部屋のどこに仕舞おうか。
すっかり気持ちがあの軽音部に向いていた。私の煙草で、彼女たちに迷惑をかけるわけにもいかない。
「菊池汐、喫煙で停学一週間、部活動禁止一ヶ月」
遅かった。
翌日ホームルーム後に呼び出され、私は自分の迂闊さに空を仰いだ。
「ほんっとうに、すみませんでした」
一週間過ぎ、七冊目の反省文を昨日提出し終えた私は、律と澪贔屓の喫茶店で三人に頭を下げていた。
四人とも私服で、私はAスカートと白のカーディガン。普段より地味な装い。
右手に重ねた手錠型のアクセサリーが擦れて鈍い金属音を立てる。来る前に求めたものだ。
パンクなコーディネートは好みから外れているので、それだけ浮いている。これに合わせようという気持ちもなかったが。浮いているくらいで丁度良いのだ。
視界の隅で蛍光灯を反射している。
「……私は、汐が反省してるなら何も言わない」
澪がため息をついて言った。頭を下げているため、彼女の表情は見えない。
澪の詳しい内心を察するには時間が足りない。全てこれからだった。
新しいバンドの始めにケチをつけてしまったのは悔やみきれない。
「と、とにかく、頭をあげて。私は怒ってないわ」
隣席から紬の声。穏やかで落ち着く。心の毒が僅かに解された気がして、私は自戒した。
「ねぇ、汐」これは律。
「はい」
「ストーンズはどのくらい聞くの?」
「毎朝必ず」
また暫し間が開く。右手のアクセサリーについて、私は真摯なつもりだ。
「……よし! 許す!」
暫しして、険しい律の声が上がった。
「……ありがとう、みんな。迷惑かけました」
私はもう一度深く頭を下げた後、顔を上げて、律の顔が笑っていることに驚いた。
一人だけ、ポットままの紅茶をカップに注ぐ。見れば三人の前のそれは湯気が薄くなっていた。
元よりそのつもりだったが、これは益々私が会計を持たねばならない。
「律さん、ストーンズって?」
「ローリング・ストーンズのこと」
「あ、聞いたことあるわ」
「さすがに有名だね」
紅茶の赤い滝を切り、ポットを脇に置く。手錠が擦れて音を立てた。
「キース・リチャーズの話?」ふと澪が気づいたように聞く。
「それそれ」
「ストーンズのギター。リスペクト」
「汐さんは、ローリング・ストーンズのギタリストのキース・リチャーズをリスペクトなのね?
それがどうしたの?」
紬が笑いながらまとめた。
私は右手をテーブルに上げ、手錠が良く見えるようにする。
「キース・リチャーズっていう凄いギタリストがいてさァ。ただこの人、麻薬中毒だったんだ。
……ストーンズは結構そんな感じだけど」
「そうそう、そのキース・リチャーズは10年くらいどっぷりだったんだけど。
警察に捕まった後、もう絶対にやらないって、これから警察のお世話にはならないってことで、腕に手錠のブレスレットをしたのさ」
「律、詳しいな……ストーンズが好きなのは知ってたけど」
「そういうことだったのね。私、汐さんのファッションなのかと思ったわ」
紬の勘違いに気恥ずかしくなり、右手をテーブルから下ろそうとして、そのまま頬を掻いた。
「学校では、カバンにつけるつもり。ベース持つときは勿論腕に嵌めるよ」
「……わかった。汐のことを信じる」
澪がケーキにフォークを入れた。
「あたしは汐のリスペクト具合を信じる」
「なら私も、汐さんのリスペクトを信じます」
「リスペクトはもういいよ……」
全員がケーキを崩すのを見届けてから、私もフォークを持った。
「そういえば、部活の用紙は私の停学中に出してくれた?」
停学中、ずっと気になっていたことだ。
「あー……それがさ、澪に言われて出しに行ったんだけど」
「なんで部長が部員に言われてから出しにいくのさァ」
「ごめんごめん。でさ、汐が一ヶ月部活動禁止じゃん?
生徒指導の先生が出てきてさ、一ヵ月後じゃないと受理しないって言われちった」
「仕方ないよな。一ヵ月後から頑張ろう」
「ええ、頑張りましょう」
律が笑いながら言い、澪も紬もそれには納得しているようだ。しかし一点だけ気になる。
「それって拙いんじゃない? 四月中に受理されないと部費でないんじゃ……」
「なんだと!?」
「そ、そうなのか?」
「いやァ、詳しくは分からないけど……。部費取れないと拙いよ」
律が身を乗り出して聞いてくる。残りの二人は、驚いてはいるようだが、それならそれは仕方ないという姿勢でいる。
「ほら、文化祭とか、学校のステージでやるでしょ?
ドラムとか、マイクとかの音量。あれさァ、業者に頼まないとできない」
学校のステージのような、音響にさほど特化していない場所で演奏する場合は特にだが、単純に楽器をステージに集めてもまともな演奏にはならない。
ドラムを生音で、ベースはアンプのボリュームを駆使してやろうとしても、どうにかなるものではないのだ。
「特にドラムはさァ、スネアからハイハットから、一つ一つにマイクをつけて、一度リハでプロの人の前で全員で演奏して。
それでバンド全体の調和を崩さないように音響のセッティングしてもわらないと……」
「そ、それって放送部の人がやってくれるんじゃないのか?」
「高校生で出来る人はいないんじゃないかなァ。居たとしても、機材はないだろうから借りないと」
「それじゃ部費がないと! まずいじゃん!?」
「うん。拙い」
席に沈黙が満ちた。
「あと、今のとこ大丈夫みたいだけど、軽音部が五月までないってことになると、音楽室の使用権とりにくる部もあるかもしれない。
あの広さは四人の部活には勿体無いから、一旦取られたら取り返すのは厳しい」
隣の紬が座りなおした。何か言おうとしたのか、しかし口を噤んでいる。
次いで澪が乗り出した。
「それは、先生たちに頼んでおけば……」
「汐、生徒指導の先生に嫌われてるよあれは」
律が切り捨てた。本当に、私の不良が響いている。
「みんな、ほんとにごめん」
「汐、私はもう許したよ。とにかく、部費と部室をどうするか考えよう」
結局その日は、解決策が出ないまま解散した。
|