そっけない王宮


 城下の誰もが、今なお王の暗愚を嘆き、亡き王弟の不幸を嘆いている。
 
そっけない王宮
 
 
 

 
 私は息を整える。私は歩幅を整える。私は指先が丸まらぬよう意識を遣り、肩が丸まらぬよう意識を遣る。
 私は息を整える。私は足音を整える。私は首が曲がらぬよう意識を遣り、足元がおぼつかぬよう意識を遣る。
 唇を薄らと吊り上げる。目元を心持ち和らげる。頬は僅かに持ち上げ、鼻梁は攻撃的でない程度に鋭く。誰かに会う瞬間でもない、部屋を出る瞬間でもない、ベッドの上で目覚める瞬間でもない。私はこれをこの世に生まれた瞬間から、一時も惰性に耽ることなく続けている。
 そして私はいつものように朝食の席につき、彼に挨拶する。
「おはよう、兄さん」
 兄の名はジョゼフ、私の名はシャルルという。
 
 
 

 
「シャルル、今日の狩りでもまた、随分と毛並みの良い狐を射止めたと聞きました。母はあなたが誇らしい」
「ありがとうございます」
 ガリア王国の晩餐は、心なしかスープとメインディッシュの間の待ち時間が長い。従者たちの話によれば、私が十六の歳を越えたころから、母上の言いつけでそうなったようで、私はその時間を私との会話につぎ込む母上を見る度に喜びを覚える。
 その僅かな時間のために、料理長がメニューに大変頭を悩ませたとも聞いた。思えば子供の頃の好物だった、鶏の、何と言ったか、料理長特製の皿が今ではあまり美味しく感じられない。歳と共に好みが変わったのだと思っていたが、スープを口に含んでからの時間と何か関係があるのかもしれない。
 しかし、母上が私のために、自分も口にする料理の味が落ちるのを許したということは、私に小さくない喜びを与える。私は母上に何か言うこともないし、料理長に何か言うこともない。
「シャルル、その狐は剥製にするのでしょう? 出来上がったらどうするのですか」
「母上にさし上げようと思っています」
「まぁ! あなたのような息子を持って、私は幸せです」
 少しばかりはにかんで、羞恥から顔を背けるように隣の卓を確認する。兄さんのグラスに注がれているワインは赤だった。私のグラスが白なので、今日のメインディッシュは魚料理だろうか。思いの他良く動いた狩りだったので、腹が減っている。
「僕も母上の子供に生まれて幸せです。そうだ、今日は兄さんが後一歩のところまで兎を追い詰めたんです。弓を構えて慎重に引く様は、御伽噺の挿絵をくり貫いたようでした」
「あなたが言うんですもの。それはそれは素晴らしい光景だったのでしょう」
「そ、そのときは夢中だったんだ……。結局射止められなかったんだけど」
「兄さんなら、きっと次は射止められるよ」
「もし射止めたら、母上にさし上げたいと思います!」
「ジョゼフ」
「はい」
「お前には聞いていません」
「申し訳ありません」
 母上が口元にフォークを運ぶのを待ってから、私はメインディッシュにナイフを入れた。空腹も手伝ってか、とても美味そうだ。
 新しい皿が運ばれてくる度に訪れる、最初の一口の瞬間にはいつも胸が高鳴る。
 
 
 

 
 比較的優秀な土系統のメイジが多いガリア王国の、王族である私が土系統の師に困ることはまずない。今日こそは金の錬金を、と思う。錬金と言うのだから、金を練成できて初めて形になる魔法だと、私は思っている。もう少しで物事の本質に手が届きそうだというこの感覚は、師や他の誰かのどんな言葉よりも励みになる。
「シャルルは凄いなぁ、今日こそは金の錬金を成功させるだろう、とお前の先生がぼやいているのを聞いたよ」
「ありがとう、兄さん。絶対に成功させてみせるよ」
「ははは、頼もしいな。それに比べておれなんか……」
「兄さん、兄さんならいつか、僕なんかよりもずっと凄いことが出来るよ」
「そ、そうか? はは、そうだといいなぁ」
 私は風系統が得意だ。そして水系統についてはどの系統よりも必死に練習している自信がある。だから土はあまり得意な分野とは言えないが、金を練成できるようになることは、私の魔法の底上げになるだろう。そのせいもあって、今日はいつも以上に真剣に魔法の練習に取り組む。
 自らを高める鍛錬は、いつだって私を惹きつけてやまない。
 
 
 

 
「さすが殿下! こんなに素晴らしい風竜、私めは見たことがありません!」
「なんて勇ましい竜なんでしょう!」
 私の呼びかけに答えた使い魔は、堂々、泰然とした風竜だった。
 父上が今日の日に私たちに使い魔の召喚をさせると仰ってから、母上や従者らが私に向けた期待は少なくないプレッシャーとなっていた。だが、この風竜ならそれに充分に応えることもできよう。自然と口元が緩んだ。
 食事の世話も、寝床の確保も早急にこなさなければならない。竜騎士隊の厩に空きはあるのだろうか。自分で尋ねに行こうかと足を上げたが、思い直して従者に言いつける。今はこの、愛くるしい使い魔の首を撫でることで私は忙しい。
「シャルル……。おまえは、すごいな。こんなに立派な竜をおれは見たことがない」
「ありがとう、兄さん。兄さんの使い魔は彼女かな? とても綺麗な女性だね」
「ああ、実はそうなんだ。ほら」
「パクノダと申します」
「よろしくお願いします、パクノダさん」
「よろしくお願いします。殿下」
 私の風竜は、一度にどのくらいの食事をするのだろうか。彼は城で見かける竜騎士達の竜よりも、控えめに見て二回りも大きい。早速世話役の手配がされるようだが、今日のうちに一度会っておくのが良いだろう。
「シャルル、おれの使い魔と握手をしてくれないか。これから仲良くして欲しい」
「殿下、お願いします」
「もちろん、兄さんの使い魔なんでしょう? 喜んで」
「ありがとうございます。ところで殿下、一つお尋ねしたいのですが宜しいですか?」
「何でもどうぞ」
「では、失礼を承知でお尋ねします。
 あなたの兄上、ジョゼフ様の使い魔に、私のような平民がなってしまったのですが、どう思われますか?」
 そうだ、今日はトリステインから良い牛の肉が入ったと聞いた。それを少し、風竜に与えるように言おう。初日に同じものを食したということは、私と風竜の彼との関係にきっと良い影響を及ぼすのではないだろうか。
「パクノダさん自身のことですか? 背が高い、魅力的な女性だと思います」
「……そうですか。ありがとうございました」
 パクノダさんはそう言って握手を解き、頭を下げた。
 今日は風の気持ちよい良い天気だ。竜の背に乗って高く飛び上がるのなら、こんな日が良い。
「ありがとう、シャルル。これから好くしてやってくれ」
「お安い御用だよ。兄さん」
 たった今、一陣の風が私の体を撫でていった。早くも使い魔の背に乗って空を飛ぶ様を想像してしまい、私は自然と笑みを浮かべた。
 
 
 
三の裏
 
 パクノダは平民だが、メイジの魔法にも劣らぬ特異な能力を持つ。
 念という。
 念は人によって異なる、さながら顔のように多種多様なものだ。
 パクノダの念は、体のどこかが触れた状態で質問をしたときに、相手の嘘を見破り、心の隅から隅までをくまなく探して本心を引き出す能力である。
「それで、パクノダ。どうだった……? どうだった、どうだったのだ!!
 シャルルは、シャルルの本心はおれが平民を召喚したことを蔑んでいたか? 嘲笑っていたか!? 教えてくれ!」
 ジョゼフが己の使い魔に強く問い詰めた。パクノダは、困ったように眉を寄せてから、おずおずと口を開いた。
「それが……。私は、ジョゼフ様の使い魔に、私のような者がなってどう思ったか? と尋ねました」
「わかっている。……それで本心ではどう思っていたのだ!
 シャルルは竜を召喚したのに、おれは平民だ。こんな、こんな……。シャルルはお前を見て、どう思ったのだ! 頼むから教えてくれ!」
「『とても綺麗な女性だ』と『背が高い』とだけ」
「……。は……いや、……それだけ、それだけか?」
「はい。あなたの弟は、ジョゼフ様の前で口にしたこと以外の何も、心の中に持っていなかった。本当にそれ以外に何も思っていないようでした」
 自室に戻ってから今までパクノダに詰め寄っていたジョゼフだったが、使い魔の言葉を聞いて静かに椅子に腰を下ろした。
「そうか……、そうか。シャルルは、おれにはもったいない弟だ……」
「シャルル様は、本当にジョゼフ様のことを好いているのではないでしょうか」
「……そうだな。少しでもあいつのことを疑ったおれが馬鹿だった。今まで随分と劣等感、猜疑心に苛まれてきたが、全ておれの思い過ごしだったのか」
 ジョゼフは、パクノダが来客用の上等な椅子に座ることを許して、部屋の外に控えていた従者に飲み物を用意させた。
 
 パクノダの能力は、質問に対する答えを確実に心の中から探し出す。
 ただしそれは、どんなに力を籠めても、どんなに万全な体調でも、無いものを見つけることができない能力でもある。
 
 
 

 
 父上が倒れた、と従者が私に駆けてきた。私は城下の下水に関する資料を読んでいた。手元に集まる報告書を読む限りでは、積年の劣化が祟って、とても良い水準にあるとは言えない。早めに何かしら手を打つ必要がある。
「シャルル、父上が倒れたらしい。もう長くないと聞いた」
「そうだね。僕たちを呼んでいるみたいだ。急がないと」
「……そうだな。急ごう」
 下水の情報はもっと細部まで必要だ。優秀な執務員はここしばらく、王が病床であることも手伝って人が足りない。外交のためにも人数を割かなければならないだろう。下水の不備は、民に不満を与える。それは良くない。
「ジョゼフ様、シャルル様、陛下がお二人をお呼びです!
 我々は下がりますので、どうぞ陛下の枕元に」
「わかった」
「ありがとう」
 本格的な工事には何人の土系統のメイジが必要だろうか。ガリアには土系統を得意とする者が多いが、彼らの数に任せて広大な国土を維持してきた。長期間王都に集中させるわけにもいかないし、もし父上が亡くなるようなことがあれば、暫くは喪に服す必要もある。私だって、暫くは何もしたくないだろう。
「……次王はジョゼフと為す」
「おめでとう、兄さん」
 仕方ないが、民にも暫く我慢してもらうしかないだろうか。喪が明けたら直ぐに手を打つことだけを約束しよう。下水のことを父上の凶報と同じ板に貼るわけにもいかないだろうから、別に木板を手配するべきか。
「兄さんが王になってくれて、ほんとうによかった。僕は兄さんが大好きだからね。僕も一生懸命協力……」
 
 
 
四の後
 
「それで、シャルルはやはり……」
「はい。改めて聞いたのですが、嫉妬とか、そういうものは一切ありませんでした。
 『兄さんがとても嬉しそうだった』とだけ」
「そうか。おれはなんて疑り深い、愚案な新王なんだろうな。父上が次王におれを指名したとき、おれはシャルルに対する優越感でいっぱいになったというのに」
 ジョゼフは続けた。
「消えたと思っていたはずの劣等感が、やはりおれを苛む」
 
 暫くして、狩りに出かけたシャルルは毒矢に倒れることとなる。
 
 
 

 
 王弟シャルルの心の内を知る人間は、彼が存命うちは一人も現れなかった。
 十五歳を迎えた彼の娘が召喚した韻竜が、王宮に留まっていたシャルルの使い魔から全てを聞くのはそれから三年後のこと。