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satellite60 01-15


サテライト60 前編
「ミス・ヴァリエールによる"新説・貴族とは"」



 その日ルイズは一つのくだものを召喚した。

 色はもぎたての葡萄から作ったワインを連想させる。皮もつややかだ。きらきらとその表面を光らせる日光に顔を上げれば、二年生全員にとっておめでたい今日の日を祝福する快晴が、トリステイン魔法学院を見下ろしていた。
 ああ、見られている。ルイズは思った。同時に、隠さなければ、とも思った。
 そのくだものは弱々しいリズムを刻んでいる。
 耳に慣れたギーシュの気障な侮蔑が聞こえない。マリコルヌの嫌味な冗談も聞こえない。誰かの嘲笑や、そこかしこから聞こえる自分の蔑称。そして自分を中心に据え置いて起こる哂い声。それが聞こえない。
 ああ、貴族の皆さまは良くわかってらっしゃる。ルイズは思った。
 笑ってくれれば、笑い飛ばしてくれれば。ちょっと失敗しただけよ、とがなり散らして(上品な表現ではないが、今日のルイズはむしろ口を噤んだ上品な聴衆の皆さまを最も忌諱する)、もう一度召喚を行うこともできたかもしれない。
 異常ではない、日常の延長として笑い飛ばしてもらいたかった。
 まぁ、なんて皆さまはこのゼロのルイズを虐めるのがお上手ですこと。ルイズは思った。そして悲しくなった。
 そのくだものは先程よりも弱々しいリズムを刻んでいる。
 監督のミスタ・コルベールが正気を取り戻す前に、これを隠してしまう必要がある。一つ、思いついた。誤魔化し、そして強く主張してしまえば良い。これは私の使い魔です。
「五つの力を司るペンタゴン、この者に祝福を与え我の使い魔と為せ」
 早口で言い切る。己の意思に逆らうように(あるいは教唆するように)四肢の先々からこみ上げてくる嘔吐感を削ぎ取って、ルイズは素早くそれに口付けた。
 そしてすぐ脇の草に向かって、胃の中のものを吐き捨てる。横目で見遣れば、くだものはリズムを刻むことを止めていた。
 ああ、止まってしまった。ルイズは思った。
 それからその、止まってしまった「心臓」の姿を目に焼き付けると同時に、どこかで、唐突に心臓が体の内から抜き取られるという不幸に見舞われた人に、心からの謝罪を送った。ちくちく、ちくちくと、ルイズの全身を人殺しという言葉が苛む。もう一度吐いた。
「ぜ、ゼロのルイズが……うぅぷ」
 前列でルイズの召喚を見ていた、喚び出されたものを見てしまった幾人の生徒が吐いた。つられて、その後ろ、そのまた後ろの幾人かの生徒も吐いた。
 その生々しい心臓をルイズの次に見て、不覚にも軍人時代の戦場を想起してしまったコルベールが、自らの周りで集団嘔吐に興じる生徒たちに引き戻される。
 彼はこの如何ともし難い事態に収拾をつけるべく、召喚の監督、教師として働き出した。
「気分の悪い生徒は自室、あるいは保健室へ行きなさい。特に酷い生徒には誰か付き添ってやって、それ以外の生徒はこの場に待機すること!
 それから誰かミス・ヴァリエールを保健室へ。ミス・ヴァリエールの、その、ええと、使い魔はそのままにしておくこと。触れたり動かしたりしてはいけません。
 私は学院長に報告してきます」
 ルイズはその言葉を聞いて、ふっと力を抜いた。いい加減に精神が摩擦音を上げていたし、体はもう指すら動かすのが億劫だった。
 次に目を開いたときには保健室の羽毛のベッドに横になっている自分が想像できたので、このまま倒れこんで自分の嘔吐物が頬につくのも、きたないだろうなぁ、なんて口元に少しだけ笑みを浮かべながらも彼女は意識を捨てることができたのだ。
 だから、自分が己の顔を汚した汚わいの臭いで目を覚ましたときは、心底驚いた。

 ルイズはぎょろりと周囲を見渡した。誰も居ない。コルベールはまだ戻っていないようで、そう何分も経ってはいないのだろう。
 唯一は隣に横たわった(ルイズはなんとか擬人法を駆使してその止まった心臓を表現することに一抹の慙愧を感じたが、無視した)自分の使い魔だけだった。
 真相は簡単明瞭だ。この場に残った筈の全員が、具合の悪い生徒に付き添って、あるいは自分の具合が悪いことにして、帰ったのだ。ルイズを置いて。
 関わりたくもない、という声が耳の奥から聞こえた。
 ルイズは己の使い魔を持ち、立ち上がる。軽く髪を払った。汚い。それから、眉間の先に投影した、心臓の持ち主であった誰かに向かって小声で謝罪を繰り返しつつ、広場を後にした。
 みんな死んでしまえ。ルイズは思った。

「明日から、どうしよう」
 部屋に戻ってルイズは言う。髪についた汚れは拭き取るだけにした。その分だけ顔は丁寧に洗ったが、早くベッドで横になってしまいたかった。剥き出しの使い魔を置く場所、汚れても良い敷物が思いつかなくて、ルイズは未だにそれを抱えていた。
「どうしよう」
 他の生徒は授業にだって連れて行くだろうし、使い魔の披露なんてものもある。先の場は使い魔で押し通したが、どうしたってこれは、人間の臓物以外には見えないのだ。
 もしかしたら、人間のそれではなくて、何か別の動物の。そういう声が脳の中で響かないわけではなかったが、ルイズは直感で、本当に忌々しい直感で、それが人間のものであることを理解してしまっていた。
「嫌だわ。本当に、嫌だわ」
 どうして剥き出しの心臓なんか。
「これじゃあまるでサバスでも始めるみたいじゃないの」
 魔法の使えない平民、愚かにも貴族に歯向かった平民の暗黒魔法みたいだ。沢山の罪のない人間の胸をくり貫いて、心臓を抜き出し、捧げ、祈り、祈り、呪い、呪い、主犯の数人は最後に、狂ったように声を張り上げて自らの首を掻いた。
 それで終わり。つまらない大量殺人と、つまらない宗教儀式。
 平民が魔法を使えるわけないじゃないの、誰もがそう言って終わった事件だった。
「そう、つまらない事件だったわ。平民が魔法を使えるわけない。だっていうのに、心臓を、くりぬいて、ささげて、いのって、のろって、のろって、のろって」

 その日の夜、ルイズは人目を忍んで、血痕の毒々しい最初の場所に戻った。
 そして、二度目の召喚を始めた。


/


 惣暗な空の二つの月が、学院の広い庭に立つ大罪人ルイズを見下ろしている。これは紛れもない悪魔召喚で、偉大なる始祖ブリミルとアンリエッタ王女と、そして全ての貴族(魔法信奉者)に後ろ足で泥をかける行為だ。
 ルイズは申し訳ありません、と声に出して許しを請おうか一瞬迷ったが、その全ての貴族の中に昼間授業を共にする生徒らが含まれていることに気づいて、やめた。
 トリステイン魔法学院のローブを簡素な祭壇、供物台に見立てて心臓を乗せる。そして両の手のひらでそれを持って捧げる。
 昼間の陽光を受けたときのように、心臓を隠そうとは思わなかった。二つの月が、ルイズの愚かしい行為を見下ろしている。
 そして一つの月が、正面からルイズを見ている。
「こんばんは、月の貴人。この度は私ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールの召喚に応じていただいて大変うれしく思います。
 ハルケギニアへようこそ」
 ルイズはす、と手の中の心臓を突き出して、丁寧に頭を下げた。そして月の顔をした男はそれを指先で摘み上げると、構造故か上を向いた大きな口を音もなく開き、ぺろりと一口で(くだもののように)食べてしまった。
「ムーン、月夜の散歩に出かけてみれば……ムゥーン!」
 不思議な言葉、不思議な顔。いや、これは不気味と表すべきだ、とルイズの脳裏に言葉が走ったが、もう後戻りはできないのだ。そんな彼女を前に男は、差し出された心臓の味が気に入ったようでしきりに声を上げている。
「これはこれは、私はムーンフェイス。素晴らしい招待をどうもありがとう」
 顔の構造上、上の視界が明るいムーンフェイスは言った。満月が二つ浮かんでいる。この場所は、随分己と相性が良い。
 そして彼はルイズを見て、良い目をしている、と言った。

 ルイズの寝室が(当然だが)一人用のものである事を知ってムーンフェイスは、誰かと会った場合はルイズの使い魔だ、とだけ言って欲しいというルイズの言を快く承諾して、月夜の散歩に出かけた。
 部屋の場所は教えているし、不都合があればすぐにでも戻ってこられるだろう。ルイズは強引に理由をつけて唸った。実際のところ、ムーンフェイスが無理にでも部屋の中に居座ってしまったら、ルイズは極度の緊張を強いられ眠ることなど考えもしなかっただろう。
「眠れ……ないわね……」
 全力疾走の後に厚手の布団を被ったかのような据わりの悪さ。頭も体も活発すぎて、どうにも彼女は休めの姿勢に入れなかった。
 仕方がないので考える。ムーンフェイスとの間に使い魔の契約が成立しているのは感じていた。契約を結んだ臓器を彼が食べることで、彼とルイズとの間にもそれが成立しているのだろう。
 ルイズは悪魔召喚のセオリーなど知らなかったが、これで一応契約したことになったようだ。思わず嘆息する。それは途方もない安堵からくるものだ。
 ムーンフェイスはあの心臓を旨いと表現した。鮮度が良いとか柔らかいとかそういったことではなく、不思議な力に満ちていた、と。恐らく一度ルイズが通した魔力のせいだろう。ルイズはさらに考える。
 彼のユニークな外見のせいだろうか、今のところ、あまり食人に対する嫌悪は沸いていない。しかし、問題の棚上げは拙かった。
「餌は、人の、肉」
 そんな使い魔、維持できる訳がない。なんとか宥め賺して人間が食べるものを、とルイズは思う。朝一番に厨房へ行って、何とか貴族用の食事をもう一人前用意して貰おう。
 ところで、トリステイン魔法学院の夜は早い。遅いのは逢引している生徒たちだが、彼らにしても零時を回るころには部屋に戻るか、どちらかの部屋に引き上げてしまう。
 そしてトリステイン魔法学院の夜は、少数で不埒者に対応できる貴族が主に番をする。宝物庫の番をするもの、歴史ある門の番をするもの、院内をくまなく巡回するもの。最もそれは形式的なもので、新任の先生がやってきた年の一ヶ月と少々でしかその姿は見られない。
 そう、トリステイン魔法学院の夜は早い。
 不幸なことに。

 殆ど眠れなかったルイズは、外が白け始める頃に目を覚ました。なんとか眠りについたと思ったらこれだ。ただ、丁度ムーンフェイスが戻ってきたところだったので、ルイズはその事についてだけは自分の体に感謝した。
 ある程度この月の魔人の容姿への耐性はついたように思うが、起きたとき既に室内に居られるなんてぞっとしない。
「おはようムーンフェイス。あなた、良い朝ねという形容は嫌いかしら」
「ムーン!……おはようルイズ。
 質問の答えだけど、強いて言えば然したる感慨が沸かない。こうだね。
 良い朝が来るように良い夜が来るのだから。ムゥーン!」
「それは良かったわ。着替えたいので、宜しければ一度廊下に出てもらえる?」
 わかったよ、ごゆっくり。そう言って外に出るムーンフェイスを見送ってから、ルイズは何が良い朝ねなのよ、と顔を歪めた。高揚が未だ治まらないせいか、血の巡りは普段と比べても良いくらいだったが、それがなければ青白い顔を彼に晒していたことだろう。
 いけない、超克しろ。今日から私はゼロではなくなるのだ。先ずは己が使い魔の能力を把握することから始めようじゃないか。
 ムーンフェイスから簡単に話を聞いてルイズが最初に思ったことは、ホムンクルスでは聞こえが悪い、ということだった。この時代、ホムンクルスは禁術の一つで、根本に後ろ暗い事が鎮座している以上、出来るだけそういう臭いを洩らしてはいけない。
 ただ、この問題はムーンフェイスの、月の貴人という表現が気に入った、の一言で解決した。悪いことばかりではないようだ。ルイズは思った。
 それから二、三の遣り取りをして、少しずつ朝が始まっていることに気づいた。ルイズは厨房を訪ねて一言いうと、改めて二人で食堂へ向かう。
 二年生用の席で一人のメイドが配膳をし直していた。ムーンフェイスのための食事分だろうか。
「悪かったわね、唐突にこんな頼みごと」
 如何にルイズが驕慢な貴族の一人と言えど、目の前で自分のために余分な仕事をしているメイドに礼を言う程度の度量は持ち合わせている。その珍しい感謝の言葉に気を良くしたのか、大仰に頭を下げてからメイドは噂話をするようにルイズへ微笑んだ。
「はい、あの、何やら一年生の貴族様が一人行方不明らしくて……。食事は要らないと一言いって行かれる教師の方が何人も」
 へぇ、そうなの。そう言って席に着くルイズの後ろで、ムーンフェイスは口元を吊り上げた。
 魔力が篭って非常に美味だったのだ。


/


 食事を終え、授業を前にルイズは、自室に近い廊下でモンモランシーに捉まっていた。
「ねぇルイズ、今日は二つの出来事があったわ。
 今日は悲しいことがあったわ。私にとって悲しいことが一つ、それと私の彼にとって悲しいことが一つ。
 それから今日は嬉しいこともあったわ。私にとって嬉しいことが一つ」
「三つじゃないの」
「いいえ、二つよ」
 無表情を装って等閑に答えるルイズに向かって、モンモランシーはにっこりと微笑む。
「あなたがそう言うんなら、私はしつこく聞かないけど」
「ありがとう。ところでルイズ、あなたその……、昨日とは違うようだけれど、その燕尾服の彼が使い魔なの?」
 突然何を言い出すのかと、訝しげにルイズは、目の前の金髪の女を見遣る。上手い言い訳は未だ用意できていない。あまり触れられたくない部分だ。
「ええ……そうよ」
「そう」
 モンモランシーの顔から一瞬、表情が落ちる。そして、面の中央から浸透するように(薄黒い)笑みが浮かび上がった。
 自然な動作でルイズの腰に腕を回す。モンモランシーは自分のへそを、制服越しにルイズの一番下の肋骨に押し当てた。
 不思議そうな顔をしてモンモランシーを見上げたルイズは、彼女の据わりの悪い、そして白濁とした瞳を真正面から見据えてしまって思わず悲鳴を上げかけてしまう。
「ルイズ、私、私ね。昨晩とてもはしたない真似をしてしまったの。
 淑女にあるまじき行いだわ。本当に、頬から火が出てしまいそうなくらい」
 モンモランシーは昨晩、恋人であるギーシュのために香水を作っていた。彼を想いながらの作業だったせいか、丁寧に微細まで気を配っていたせいか。時計は作業が半分も進まないうちに零時を回ってしまっていた。
 ここからは匂いがきつくなるから、窓を開けて行わなければ。塩梅は良く解っていたし、夜風も彼を想うだけで火照る体があれば苦にならなかった。
「夜中に窓を開けたら、男子棟の方から女の子が一人歩いてきたわ。まぁ、積極的ね、なんて思ったりしながら。黒い髪の女の子だったの。
 そのときは見えなかったけれど、一年生だったそうよ。それで、それでね」
 それから私、人様のお食事を覗き見てしまったのよ。
 モンモランシーは、ルイズの半歩後ろ、そこに立つ月の男を見て笑った。

 後ろの男を問い詰めようとして、同時に前の女の口を塞ごうとして、ルイズは一見可哀相なほど前後不覚に陥ってしまった。
 そんな彼女を宥めすかして、ルイズの自室で一先ず落ち着いたのはモンモランシーの提案からだ。それから彼女は、なにも心配しなくて良いのよ、と言った。
 ルイズは自分の狂気を棚に上げた後、目の前の女に慄いた。
「大丈夫、大丈夫よ、ルイズ。だって私、本当に感謝しているの。
 全ては今朝ね、家の関係で少し顔を知ってるってくらいの一年生の子が、私の部屋を訪ねてきたところから」
 モンモランシ先輩、黒髪で、私と同じくらいの身長で、一年生のケティっていう女の子を知りませんか!グラモン先輩の恋人なんですけど、モンモランシ先輩ってグラモン先輩の幼馴染なんですよね?モンモランシ先輩からグラモン先輩に聞いてもらえませんか?
「私はね、あら、ギーシュの恋人ならこの部屋に居るじゃない、そうその子に言ったの。
 彼女は次に何をしたと思う?人の部屋のベッドの下まで覗いてから、居ないじゃないですか!って怒鳴ったのよ。本当に、失礼しちゃうわ」
 そしたら彼女はまた説明を始めるの。
 黒髪で、私と同じくらいの身長で、一年生のケティっていう女の子なんですけど、グラモン先輩の恋人で、昨日も男子棟まで言って会っていたみたいで。あの子零時には戻ってくるわって言ってたのに……。
「そのとき私、ピンと来たわ。いいえ、本当は解っていたのよ。
 昨日の夜、零時過ぎにね、馬鹿みたいに幸せそうな顔をして、お外を歩いていたあの子を、あなたの、あなたの、あなたの、あなたの使い魔が、失礼なあの子を、私の顔に泥を塗ったあの子を、私のことを影で笑って見下していたあの子を、あの子を、あの子を」
 そこでモンモランシーは一度唇を結ぶと、声を出すために使う筈の息をルイズの青い唇に吹きかけた。それから冷艶に、唇だけを振るわせた。
 あなたのつかいまが、あのこを、た、べ、
「待っ……!」
「うふふ、ルイズ、可愛いのね。大丈夫、大丈夫よ。
 さっきも言ったけれど、私、本当に感謝しているもの」
 にこにこと嬉しそうに笑う。ルイズは仕方ないか、と一息ついて、自分も彼女に合わせて笑うことにした。
「そうそう、これは一番新しい話なんだけどね。そのケティっていう子、右手だけ見つかったの」
「ムーン、思いの外美味で、後で食べようと思っていたんだけどね」
 ぎょっとして、二人の顔を交互に見るルイズの焦燥を見て取ったのか、モンモランシーが首元を指で叩く。赤子をあやす様に、丁寧なリズムで。
「キュルケ、居ないわね」
「……?そうね、向かいが騒がしくないわ」
「学院長に呼ばれているの。彼女以外にも何人か、猛獣系の使い魔を喚んだ生徒が学院長室でメイジの心得を復唱させられているわ」
「そうなの?」
「メイジが御しきれなくて人を襲ってしまう事件、何年か前に一度あったそうよ。
 それでね、学院の方でもそういう路線で処理をするみたい。……良かったわね?」
「それよりルイズ、ドラゴンを喚んだタバサが呼ばれていないんだけど、どうしてだかわかるかしら?」
「学院長室よね……、"ドブ鼠"のオスマン?」
「そう!そうなの。あの覗き鼠がドラゴンを怖がっているのよ」
 ドブ鼠のオスマンというのは、好々爺を気取りながら、使い魔を使って卑しいことをしているオスマンを揶揄した単語だ。学院長が権力その他を使って必死に伏せているあだ名なので、知らない二年生、一年生は多い。
 だが、ルイズはその手の悪口に関しては敏感だった。自然と話は弾む。
 ああ、楽しい。ルイズは思った。
 二人は競い合うように、学院長を哂い、ギーシュを哂い、キュルケを哂い、ケティを哂い、そして沢山の生徒たちを哂いあった。
 そんな二人を、後ろの男は笑いながら見ていた。


/


「ええと、ミセス……ミセス・シュヴルーズ、今日の授業はどうなさったのですか?」
 講堂のドアを開けてみると、中には授業道具の片付けを行っている教師が一人だけだった。
「本日は全学年、全授業が休みです。食堂側のドアには張り紙をしたのですが。
 私は見ての通り、早めに用意していた道具を片付けなければなりませんので……。
 おや、変わった使い魔を召喚しましたね、ミス・ヴァリエール」
「あ、はい。ムーンフェイスといいます」
 それからルイズは、彼が人語を話せること。人間よりも頭が良いかもしれないこと。膂力が非常に優れていることを文字通り我が事のように説明した。
 息が弾んでいるルイズを微笑ましそうに見守るシュヴルーズの耳には、ルイズはとても努力家、勤勉な生徒として聞こえてきている。教師として、生徒の努力が実を結ぶ様を見ているのは気持ちの良いものなのだろう。
 一度手を止めると、ルイズに向かってこれからも頑張りなさい、と言った。
「ミス・ヴァリエール、才ある努力とは必ず実に繋がるものです。
 私は昔、非常に出来の悪い生徒でして……、よく先生方に迷惑をかけたものです」
 ですが今ではトライアングルとして、歴史あるトリステイン魔法学院の教師をさせていただいています。
 あなたもいつか辛いこと、苦しいことに出会う日が来るでしょうが、そのときはその素晴らしい使い魔を思い出して、自分を励ますのですよ。
「はい、頑張ります」
 ルイズは手応えを感じていた。目の前で自分に(少々恥ずかしい)過去を語りつつ声援を送ってくれたのは、二年生から授業を受けることになったミセス・シュヴルーズだ。
 彼女はルイズの事を知らない。ゼロのルイズという渾名も知らない。
 知らない人間、他人の事は教師であれど簡単に評価できるものではない。ならばなぜ。
 メイジを計るにはその使い魔を見ろ。
「では、失礼します。ミセス・シュヴルーズ」
「ええ、それから、浮いた時間は自室で自習すると良いでしょう。
 できるだけ部屋から出ないように」
 ルイズはドアを閉めてから、だらしなく口元を緩めた。後ろの男が堪らなく誇らしかったのだ。

 モンモランシーは先ず自分の奥歯を殺した。それから下唇を殺した。固く作った拳の内側も殺した。
 垂れた血液の滴を飲み込んで、血液を頭蓋骨に注入した
 右手と左手と右足と左足の先から順々に、搾取した血液を頭蓋骨に注入した。
 顔が焼けると同時に、脳が白く抉られる。
 目の前では、ギーシュ・ド・グラモンが自分以外の女のために泣いていた。
 この腕は、一年生のケティ・ド・ラ・ロッタのものらしい。
 全員の点呼はまだ行われていないようだったが、行方不明者の報告(友人、隣室の者から)と、身元不明の破損部位が同時に現れたのなら、自ずと結論は出る。
 以前似たような事件が起こったことを知っている教師、覚えている教師も居て、そう複雑な事件にはならないだろう、という雰囲気が蔓延していた。
 ロッタの家が勲爵士(最下位の貴族)であったことも理由の一つだったし、恐らく責任を取って引っ立てられるコルベールは教師の中でも変人扱いの嫌われ者だというのも理由の一つだった。
 ただ、それらの理由は決してギーシュを納得させるものではない。彼は悔しくて涙を流した。
 同時に、廊下の曲がり角から忍び足で彼を伺っていたモンモランシーは、この場に居ても得る物などないだろう、そう自分に言い訳して立ち去ることにした。

 ルイズは自室に戻る途中、顔全体を満遍なく土気色で塗りたくったモンモランシーと遭遇した。彼女との奇妙な友達意識がルイズにはあったし、それを差し引いても彼氏の二股は同情すべきことだ。
 傷心の友人を前に簡単に挨拶をして通り過ぎるのは、貴族としていただけない、そう思うと思わずルイズの足は止まってしまった。モンモランシーも、釣られるように足を止める。そのまま数秒の時を挿んで、居た堪れなくなったルイズが先に口を開いた。
「その、モンモランシー、ええと、ギーシュの事は本当に残念だったと思うわ。
 でもあなたは……優秀なメイジだし、背も高くて美人だし、その……ムーンフェイスも何か言ってあげてよ」
「ムゥーン。そうだね、一言。
 今君の胸をかき回しているものが何か考えてから、それを"解決"してしまえば良い。
 そうすればその辛さもなくなる」
 苦し紛れに話を振ったこともあり、ルイズはムーンフェイスにはあまり期待していなかったのだが、彼の言葉を聞いたモンモランシーははっとしたように顔を上げ、そのまま涙を拭ってくすりと笑った。
「そう、そうだったわ。解決、解決してしまえば良いのよ。
 食事にでも誘おうかしら。気化するように調節してから香水も良いわね。
 適当な品目をつけて錠のまま渡すのも良いかしら……。
 ねぇ、ルイズはどれが良いと思う?」
 突然語り出したモンモランシーを前に、うなじに少し嫌な汗を掻いた。
「ど、どれって?」
「この薬をギーシュに飲ませる方法。ギーシュの体格なら、4錠で致死量の筈なの。だから、そんなに難しくないと思うんだけど」
 解決。致死量。
 ルイズはなんとか悲鳴を噛み殺した。至極全うな顔をして、目前の級友は人一人殺す算段を立てている。しかも今朝まで恋人だった相手を。
 胸を煩わせるから殺す、この理念も理解できないし恐ろしいものだった。解決、の言葉一つでそれを思いつく思考回路も。
 しかしルイズが最も恐ろしかったのは、先ほどまで土気色をしていたモンモランシーが、男性の手に触れた生娘のように頬を染め、艶やかさすら含みつつある声でそれを自分に語ったことだった。
「あ、あの、ね……モンモランシー、私はそれ、ええと……ムーンフェイス!
 お願い、何か言ってあげ……ぁ……あ……」
 自分の使い魔が、モンモランシーと同じ目をしている。すぐさまルイズは、二人の間の"解決"に、齟齬が生じていたという自分の解釈が間違っていることに気づいた。
「本当のところを言うとルイズ、私は彼女と比べて、君にはちょっとがっかりしているんだ。
 主人と使い魔は似た者同士が多いという話だったのに、ね……ムーン!」
 がっかりしている。
 ルイズは胸の中のぽかぽかした気持ちが剥がされていくのを理解した。それも瘡蓋を乱暴に爪で剥ぐような形でだ。
 駄目、駄目だ。この気持ちを失ってはいけない。ルイズは必死に暖かさの因を思い出す。たった数分前に会ったばかりの、ミセス・シュヴルーズが褒めてくれた。認めてくれた。
 彼女は私のことを、私の使い魔のことを、素晴らしいと言ってくれた。
 ルイズは青ざめた。
「ね、ねぇ、ムーンフェイス。私、駄目なの?がっかりする?悪いところがあったら言って頂戴!
 何でも、どんな事でも直すから、貴方に相応しいメイジになるから、頑張るから……。
 それに貴方、あのとき、最初のとき、良い目をしているって褒めてくれたじゃない!良い目をしているって、あのとき、良い目を、良い目……」
 ムーンフェイスは答えない。ただ、無味乾燥な顔をしてルイズを見返しているだけだ。ただ、その目をしてルイズを見返しているだけ。
 丁度後ろでもモンモランシーが彼と同じ目をしている。
 ルイズははっと息を呑んだ。
「解った、私、ギーシュのこと、殺してくる。
 魔法は失敗してばかりだけど、頑張る。先ず首を両側から裂くわ。ぱかっと開いたら、声を出せないように詰め物をするの。詰め物は何が良いかしら。あまり適当なものを詰めると駄目ね、足がつくわ。ええと」
 ルイズは自分の言葉に手応えを感じていた。少しずつ、解る。ムーンフェイスの閉じられた大きな口が、端の方から段々と釣り上がって来ている。ルイズの確信を裏付けるように、彼は愉快そうに声を上げた。
「ムーン、心配ご無用。私がそっくり食べてあげよう」
 ルイズは心の中で自分に喝采を送り、そして必死に目を逸らし続けた。
 この嘔吐感を悦楽に変える必要があった。


/


「わ、私がギーシュを殺してくるわ。
 ええと、明日にでもすぐ……いえ、明日は拙いわね。今日一人なくなって直ぐだし。明後日も良くないわよね、ええと、一週間後!一週間後よ。
 その日にはちゃんと……あれ、でも、えっと、一週間後は王室関係の行事があったかもしれない!
 そのあたりもだめだわ。ほほほほんと、こまったわね!
 だから、ええと、ええと……」
 必死に言葉を紡ぐルイズを見て、モンモランシーは破顔した。それから三回だけルイズのちらりと見える鎖骨を人差し指でつつくと、落ち着きなさい、とでも言うように彼女の髪をくるりと掬ってみせた。
「うふふ、ルイズ、私の仕事を取らないで頂戴。でも、そうだわ。
 今日、今すぐ、ギーシュに決闘を申し込んでくる。
 そうね、私は……命までは獲らない。こう言えばあなたは安心?」
 にっこりと微笑む。
「え、いいえ、全然そんなっ、私は命がどうとか。ギーシュ一人の命なんて大したこと……大したことないわよ!」
「そう、そうね。大丈夫。私もミスタ・ムーンフェイスも解っているわ。ね?」
「うん……そ、そうよね」
 両腕をルイズの背中に回し、制服をたくし上げて布越しの柔肌の感触を楽しんでからモンモランシーは、ムーンフェイスに向かって微笑んだ。
 私は命までは獲らないわ。
 ムーンフェイスは心得たとでも言うように頷いた。

 少し用意が要る。そう言って自室に戻るモンモランシーと、彼女に腕を引かれるままについてきたルイズ。
 モンモランシーは部屋の中を歩き回って脈絡もなく道具を集めると、一まとめにして大きなトランクに放り込んだ。
 そして羊皮紙を机に広げると、滅多に使わない赤インクを手元に引き寄せてから、指先でルイズを近くに呼んだ。そして唇だけで笑ってみせた。
「手袋を投げつけるだなんて、淑女のするものではなくってよ。
 ルイズ、ちょっと知恵を貸して頂戴。……書き出しは『甲斐性なしのギーシュ・ド・グラモン様へ』が良いかしら」
 ルイズはその言葉を聞いて、随分と貴族らしさを欠いた笑みを浮かべた。ぺろりと上唇を舐める仕草も忘れない。
「あ、そういうこと。そうね、それなら……」
「それより……」

 甲斐性なしで節操なしのギーシュ・ド・フタマタ・グラモン閣下へ。
 私、モンモランシー・マルガリタ・ラ・フェール・ド・モンモランシは、貴殿のような冴えない殿方と恋仲であった浅慮者ですが、器量、魅力、甲斐性を並べてみてもまさに青天の霹靂であります二股の不名誉を削ぐため、ここに決闘を申し込みます。
 つきましては本日正午、ヴェストリの広場にてお待ちしております。
 ギーシュはここまで読んでその決闘状を破り捨てた。文面はもっと続いていたが、これ以上読んでいられなかった。その面は言わずもがな、真っ赤に興奮している。
 フェミニストにも限界はあるのだ。

 時間の直前までモンモランシーの部屋で談笑して、二人は指先を絡ませながらヴェストリの広場へと向かった。
「フラスコが五つと、それからバトンの束?それって貴族用の杖じゃないわね」
 モンモランシーは、早速トランクを開いて準備を始めた。それをルイズは興味深そうに見守る。
「フラスコは最初は三つ。私は本当は、こういうメイジじゃないんだけど……ギーシュの影響でね。
 これはスライムの素。このバトンは骨格よ。面白いでしょう?」
 説明しながらも準備を止めないモンモランシーが手に取った仮面を見て、ルイズは噴き出した。
「それ、ギーシュの顔?薔薇を銜えてるのね」
「これが命令の受信塔なの。これが落ちたら、10秒ちょっとおろおろしてからその場で蹲って頭を抱えるように作ってあるわ」
「随分間抜けね。あなたって本当にギーシュと付き合ってたの?」
「あら、そこが可愛いのよ」
 モンモランシーはころころと笑った。
 そこで、一人分の足音が近づいてきた。正午になったらしい。

「モンモランシー!誤解だ!」
 先手はギーシュの弁解(口撃)だった。彼はどうやら、ケティの悲報を聞いて涙を流していた自分が、モンモランシーに見られていたことをどうやら知っているらしい。
 そこについての弁解と、ケティとの関係、彼女とは前の虚無の曜日に遠乗りに出掛けただけで、彼女と呼べるほど親しいのはモンモランシーだけだ。
 モンモランシーは片手を上げて遮った。
「でも、そのミス・ロッタが友人に、自分はグラモン先輩の恋人だ、と漏らしていたそうですけど」
 それを聞いて口を噤むギーシュを見て、ルイズはおや、と思った。死人に口なしと言うし、真っ向から否定してしまえば良いのだ。
 ギーシュって思ったよりも良い男だったのね、そう思ってモンモランシーを見遣ると、彼女が少しばかり得意気な顔をして自分を見返しているのに気付く。ルイズは苦笑した。
「ギーシュ、始めましょう。弁解はメイジらしく、貴族らしくお願い」
「……わかったよ。本音を言うと、その男前なスライムは傷つけたくないんだけどね」
「あら、ありがとう」

 最初は一対一だった。
 次は二対一、そして三対一。四対一、五対一。
「モンモランシー、随分と、はぁ、はぁ、優秀な、はぁ、スライムだね。顔が良いから、かい?」
 今は七対一だ。
「ええ、素敵でしょう?」
 ギーシュの錬金したワルキューレの拳で、人型のスライムを支えているバトンの一本が外にはじき出された。拳大に出来た空洞は、すぐさま周囲の粘液が寄り集まって修復される。
 モンモランシーは優雅な動作で足元まで転がってきたバトンを拾い上げると、無造作にスライムへと投げ遣った。
 それをスライムは捕食するように取り込んで、一時的に軟体となっていた部分に嵌め直す。元通りだ。
「だが、はぁ、これじゃあ、決着はつかないんじゃないかい?」
「そんなことないわよ。今から見せてあげる」
 モンモランシーは一度閉じたトランクをもう一度開くと、更にバトンとフラスコを取り出した。それらを纏めてスライムに投げる。スライムはそれらも捕食すると、腕を四本生やした。
「私が水場を作ってやれば、どこまでも大きくなるの。素敵でしょう?」
 ギーシュと全く同じ体躯だったそのスライムは、いつのまにか二回りほど大きくなり、沢山の手を生やしていた。
「くっ、や、やれ!ワルキューレ」
 一斉に、唯一破壊可能と思われる面を狙うワルキューレ達。それをスライムは、肩と頭部を繋ぎ合わせてから腕を顔に巻きつけることで耐え切ってしまった。
 首がなくなったスライムは、ギーシュのマスクが残ってはいるものの、ルイズの目には醜悪に見えた。
 モンモランシーから投げ込まれるバトンによってどんどん腕が増え、または太くなっていくスライム。
「どう!素敵なスライムでしょう。やっぱりギーシュをモデルにしたのは間違いじゃなかったわ!」
「ちょっと、モンモランシー。あなたそれ、ギーシュの面影残ってないわよ」
「あら。……言われて見れば、そうね」
 思わず声にしたルイズの言葉に、高笑いしながらバトンを送り込んでいたモンモランシーは笑みを消す。
 それから一拍の間を置いて、詰まらなそうに言った。
「確かに、うん、面影がないわ。
 ……なんだ、私、自分で思ってたほど、ギーシュのこと好きじゃなかったみたい」
 その声に釣られるように、スライムは右の手に自分を構成しているものの大半を集めだした。大きな、大きな拳。
 水って意外と重いのよね。ルイズがそう思ったとき、ギーシュのワルキューレはばらばらに散っていた。


/


 ゼロのルイズが美人になった。
 召喚の儀を越えて、一年生の死亡事故を越えて、それからギーシュ・ド・グラモンの怪我騒ぎを越えてなんとか平穏に辿り着いた二年生に蔓延する巷談がそれだ。
 艶やかになった。笑い方にぞっとする妖艶さが混じりこんでいる。彼女が喚んだ使い魔の月の魔力でサキュバスになった。男子だけではなく女子も巻き込んで皆が皆、暇があればそんな話ばかりしていた。
 尤も、学院で一番に艶のある女生徒といえば変わらず微熱のキュルケの事を指す。どれだけ纏う雰囲気が変わってしまっても、肉感的な魅力は一日ではなんともし難いものだ。
 詰まらない噂話ほど良く聞こえてくる。キュルケは半眼でたった今そんな話を振ってきた隣の男子を睥睨した。
「デリカシーを欠いた殿方ほど、見苦しいものはありませんのよ」
 トリステインは上面ばかり、と言いつつも、ゲルマニアは気品に貧しいと自ら認めるキュルケが淑女を装うのは、好みの男性に良い第一印象を与えるときか、そうでなければ親しいお付き合いは金輪際お断り、と宣言するときだ。
 キュルケが憂いの溜息をもう一つつく頃には、迂闊な一人は他の男子生徒の手によって輪から弾かれてしまっていた。
 キュルケはもう一度溜息をつく。自分はあの子が、突然艶やかになった理由を知っている。
 今の貴女は同情に値するわ。だから強く、強く在って頂戴。二日前の晩、珍しくも逢瀬の時間になってから自分のドアを叩いた少女のことを、キュルケは思い出していた。

 その日もキュルケは自室に招いた男子生徒との駆け引きを楽しんでいた。いや、楽しんでいたと言えば語弊があるだろうか。いい加減キュルケの浅黒い肌を求めて理性を飛ばすくらいには、会話の時間を目の前の男には割いてきている。
 そろそろ発情するだろうし、引き時かな、そんなことを彼女は考えていた。
 キュルケはその派手な立ち居振る舞いからは推測出来ないほど、閨の生活が慎ましい。彼女は本能的に男性を集団で従える術を知っていたし、一度女の肌を与えられた男が次に望むのは、周囲の雄の排斥であるということも感覚的にだが理解していた。
 そのあたりを吟味しつつ、目の前の男からは得るものがもう殆どあるまい。そう結論付けた。いくつかある自分の引き出しの中から、後腐れなく男と別れる方法を脳裏に並べてイーネー、ミーネーと指で選び始めたときのことだった。
 唐突に規則正しい二度のノックが響く。手の甲の角度を選んだのだろうか、扉を一度指の腹で確かめてから力を込めたのだろうか。キュルケの部屋の扉は、場違いなほど澄んだ音で鳴いた。
「どちら様?」
「夜分遅くの非礼をお詫びします。ヴァリエールです。
 ミス・ツェルプストーはご在室ですか?」
 まぁ、ゼロのルイズ!忌々しいヴァリエールの癇癪女がどんな理由でツェルプストーの部屋に。
「ええと、少々お待ちになって?淑女として、夜着の一枚で貴女を迎えるわけにはいかないわ」
 実のところ、別れ話を切り出す予定だったキュルケは極力露出の少ない服を着ている。急ぎで窓を大きく開き、そして使い魔のサラマンダーに目配せしてから男子生徒を窓の外に蹴り捨てた。
 不遇な男子生徒の精一杯の抗議は、慌てて服を着るキュルケに尾でも踏まれたのか、フレイムの上げた猛獣の鳴き声に掻き消されてしまった。
「さ、さぁ、どうぞ。……貴女が私の部屋に来るだなんて、どういう風の吹き回し?」
 頼み事があるのよ。ルイズは言った。
「化粧の仕方を教えて欲しい?」
「ええ。貴女、その手の事は得意でしょう?」
 確かに、教師を併せて数えでもしなければ学院で一番に上手い自信はあるけれど。
 キュルケはそう言ってから、目の前で鬱々と下を向いたままの同級生に視線をやった。
 何かと自分に難癖をつけてくるこの女。バストもヒップも薄くて、不健康さは持ち合わせていないものの女性的な魅力は大きく欠けている。だが、顔だけは良い。容姿だけは王宮のパーティに出しても誇れるくらいだ。
 それがノーメイクだと言う。日々努力と探求を怠らぬキュルケとしては遣る瀬ない。
「ええと、その、出来ればあまり説明したくないのだけれど、貴女には丁寧な協力をお願いしたいから。他言無用で、その、詰まらない理由を聞いてもらえるかしら。
 あ、ももも勿論お礼はするわ!ヴァリエール公爵家の名誉に誓って」
 彼女は最初にそう言い訳してから、寂しそうに口を開いた。
「口紅のひき方を教えてもらいたいのよ」
「紅?なんでまた」
 公爵家の誇りに誓って豪勢な報酬が約束されるのなら、この無垢な少女に大人の女性を教えるのも吝かではない。それに、女性として頼られるのは純粋に楽しい。
 キュルケはほぼ請けるのを内心で決定してから、好奇心からその理由とやらに耳を傾けることにした。
「不敵な笑み、って良く言うじゃない。底が知れないっていうか、少し不気味な感じのあの」
「ええ、解るわ。蠱惑の笑みを浮かべられてこそ一流の淑女よね。それが?」
「それがしたいの。私、このままじゃ、近い日に使い魔を御せなくなる」
 どんなに無表情でも嗤って見える顔を作りたい。ルイズはそう言った。
「それは、頼りがいのある主人の顔をしたい、って訳じゃあないのよね」
「ええ。むしろ私はたぶん今、主人として切られるか切られないかくらいの立ち位置にいるわ。自分でもわかるの」
 その、ルイズが言った「切られるか」という言葉がキュルケの耳を打ったとき、彼女は足の指の爪先から、カミキリムシに自分が食まれる幻覚を見た。皮も、肉も、骨も、全てが時間をかけて、気付かないほどに侵食される。気付いたときには、四肢を全て失っているのだ。
 それに戦慄し、そしてルイズの顔を見て納得した。
「ああ、うん。……今の顔、ね?」
「……そうよ。今の顔。これがいつでも出来ないと多分、私は」
「解ったわ。落ち着いて、ルイズ。お願いだから私にそんなに怖い顔を向けないで頂戴。
 お願いだから、落ち着いて」
 ごめんなさい。ルイズは表情を消して言った。
「ええと、ごめんなさい、ルイズ。口紅って、女の笑顔を魅力的に見せるものよ。
 鏡に一度丁寧に微笑んでから、その形を残すように紅をひくの」
 そういう歪な笑みは、道化師が本業ね。でも、とキュルケは、これ以上ルイズが気落ちする前にと言葉を繋いだ。
「大丈夫、私に任せて。口紅だけじゃ足りないわ。涙袋も、目蓋も、飾る場所は沢山あるの。
 毎朝、私の部屋にいらっしゃい。私が描いてあげる。貴女が自分でやるよりは上手くいくわ。きっと、きっと大丈夫」
 そのときの無表情に、かつての快活な彼女の残滓を見つけたのは、キュルケにとってとても幸運なことだった。

 そして次の日から、ルイズは目が覚めるほどの美人になった。
 キュルケはルイズの後ろで笑っている月が心底恨めしかった。


/


拝啓
 トリステイン魔法学院も学徒を新しくし、わたくしも未熟ながら進級いたしました。召喚の儀の興奮冷めやらぬ私たち二年生は、入学したてのころのそれとは違った目新しさを感じつつ、毎日を送っております。
 さて、お父様には未熟な末娘がどんな使い魔を召喚したのかと、大変な気苦労をお掛けしていると思いますが、先日わたくしは月の貴人を召喚いたしました。非常に優秀な使い魔で、文字でしかお伝え出来ないことを大変残念に思います。
 そして優秀な使い魔を召喚した反面、未だに満足に魔法の使えぬわたくしの未熟が浮き彫りとなり、身の引き締まる思いを感じると共に、一年前、学院への入学をお許し下さったお父様にもう一度感謝のお手紙を認めたく思いました。
 ところで、改めてお父様にお願いがございます。この度召喚しましたわたくしの使い魔、名をムーンフェイスと申しますが、非常に人に似通った姿形をしておりまして、そこでお父様に武器の手配をお願いしたいのです。
 非常に厚かましいお願いで恐縮ですが、本人の希望でテーブルナイフを59本、加えて我儘を言わせて頂けるのなら、純銀の物をよろしくお願いいたします。
 それでは、暖かくなってきたせいか、近頃土くれのフーケなる盗賊が城下を賑わせているようです。若輩の愚慮とは思いますが、どうぞお気をつけ下さい。
                        敬具
      ルイズ・フランソワーズ・ド・ラ・ヴァリエール

 とんとん、と後ろから急ぎの足音がする。キュルケに教わったばかりの、化粧の崩れない澄ました顔を保ちつつ、ルイズは足を止めた。
「おはよう、ルイズ。今日も素敵ね」
 モンモランシーがルイズの隣に並ぶ。丁寧に巻いた金髪を揺らしながら微笑む彼女はきちんとした化粧をしていて、やっと化粧をした自分の顔を覚えたルイズにも、それが創意工夫されたものだということが解った。
「モンモランシー……、おはよう」
「ええ、おはよう。あら、ルイズ。綺麗なお化粧ね」
 ルイズの糊塗を見透かすように笑う。ルイズにも、モンモランシーの化粧の大体が解ってしまったのだ。自分で彩っているモンモランシーには、ルイズのそれは細部まで解るに違いない。
 まずい。ルイズは思った。
「本当に素敵な化粧よ、ルイズ。その笑い方も素敵」
 それからそうやって笑おうとする貴女も素敵。モンモランシーはルイズの耳に口づけしてから言った。
 まずい。ルイズは再び思った。ばれている。
「そんなこと……ないわよ」
 ルイズの口元は笑っていない。目元も萎れている。ただそれを、厚塗りの化粧で誤魔化しているだけだ。常に口元に不敵な笑みが浮かんでいるし、目元はぞっとするほどに美人だ。
 ただ、もしも不用意に笑いでもしたなら、ルイズの顔の素敵な化粧は、たちまち歪な笑い顔を作ってしまうだろう。
 この化粧は、ルイズから喜怒哀楽を奪う。そうまでして、そうまでして得たというのに、この女はそれをふいにするのだろうか。
「ルイズ、止めて。私たちはお友達でしょう?」
 指を出して、その不穏な表情を押し留める。
 モンモランシーは恐らくルイズのその不可思議な使い魔のことを、主人以上に理解していた。化粧で作ったルイズの顔は、捕食者としてムーンフェイスと肩を並べるに(上辺の限りでは)相応しいものだ。
 だが、それだけではない。その糊塗の下、鬱屈と表情を押し殺したルイズは、餌として非常に良質に映るだろう。モンモランシーに食人の嗜好はなかったが、目の前の不思議な使い魔は己の意の儘に生きている。そのくらいの推察は容易かった。
 モンモランシーはその精一杯の背伸びに悪戯するように、下唇に己のそれをかすめて紅を崩すと、焦ったように動きを止めたルイズを廊下に置き去りにして去っていった。
 ムーンフェイスが隣で溜息をついた。彼はそろそろ貴族の食事以外のそれを必要としていたので、消えても問題のない平民を上手く見つけ出す必要があった。

「解ってる。そろそろ食事が要るわよね」
 その日の晩、ルイズは言った。食糧事情は使い魔と付き合っていく上で不可欠なことだ。納得するのよ、私。納得出来なければ、これからが辛くなることは自明だ。
「ちょっと当てがあるの。最近、不届きな盗賊の噂を良く耳にするわ」
「ムーン、盗賊ね。そいつもメイジかな?」
「ええ。きっと、どこかの国で爵位を剥奪されたメイジね」
「それは美味そうだね。……ムゥーン!」
「神出鬼没で、盗む物に統一性のない気紛れな盗賊だけど、きっと次の狙いはここよ」
 食べられれば良い、とでも言いたげに振舞うムーンフェイスに歯噛みしながら、少しばかり強引にルイズは自説を披露する。これは彼女の、健全な方向での主人としての努力だった。
 短くは上辺を取り繕う事も必要だが、長い目で見るなら内面の有用性もアピールする必要がある。ルイズは理解していた。
「その盗賊の犯行はね、回を重ねる度に派手になっていくの。どんどん大きな屋敷から、どんどん地位のある人から。
 盗賊は有能だったわ。目撃証言は掃いて捨てるほどあるのに、性別も不明。
 最後の犯行は城下の公爵家。それもかなりのトップだったの」
 ルイズはすぅ、と息を吸い込んだ。次第に早口になる唇と上手く付き合いながら、ムーンフェイスの顔色を伺っている。そう悪くないようだった。
「そして盗賊は周到よ。今までの犯行記録を調べれば解るんだけど、大きな屋敷、地位のある貴族相手には、それなりの準備期間を割いてきた。
 もう前回のそれから、今までと比較したなら十分なそれを割けたはず。となると今度は、その不幸な公爵家よりも名誉を抜き取れる王宮か、そうでなければこの魔法学院を狙うはずだわ」
 それと多分、貴方がまだか、まだかと一日を待つよりも、その盗賊がしびれを切らす方が早いと思うのよ。それを聞いてムーンフェイスは、君の言うことが事実となるかどうか試してみよう、とでも言うように、口を閉じてからにぃと笑う。
 そしてその日、そう言って窓を開き宝物庫を指差して見せたルイズの凡眼を慧眼と誤解させるように、学院に不届きなゴーレムが現れた。
「言った通りでしょう。
 あれが今日の食事。テーブルマナーは守って頂戴ね?」
「任せておくれ。ムゥーン!」
 ムーンフェイスは開け放たれた窓から空を見上げる。やはりそこには、月が二つ鎮座していた。


/


 こつこつ、という音にタバサは窓へ目を向けた。常日頃から他人を厭い、そして読書の時間をこよなく愛する彼女ではあったが、例外もいくつかある。
 そこにはタバサの予想通り、タバサの部屋の窓を必死に叩き続ける風韻竜のシルフィードが居た。彼女は落ち着いた動作で読みかけの本に栞を挿むと、杖で使い魔のために窓の鍵を開けた。
 そして、太陽がすっかり落ちてしまっていたことも理由の一つだろうか、彼女は些か乱暴な動作で窓を開け、狙ったように鼻を強く打ち付ける使い魔を見て溜飲を下げる。
「何?」
 言外に、こんな時間に、というニュアンスを込める。タバサの言葉は確かに伝わり辛いが、今に限って言えば、シルフィードは身を以て理解していた。鼻が痛かった。
「お姉さま!お外を見て!
 お月様が沢山、沢山!きゅいきゅい」
 タバサはおかしな事を言う己の使い魔を一瞬訝しんだが、栓の無い事、そう呟いて窓から顔を出した。
 そして息を止めた。

 雪風のタバサ、本名シャルロット・エレーヌ・オルレアンは、その痩躯に不釣合いな不幸を背負った少女だ。
 ガリアという一国の王族に生まれ、父は伯父に殺された。母は心を殺され、そして自身も汚れ仕事をこなす駒の一つとして従姉に使われている。
 だが、自分が体の良い道具として使われることも、本国に居場所がなくトリステインで一生徒をやっているのも、彼女にとって別段苦ではなかった。
 ただ、母の心の患いだけが愁いの因だったのだ。そしてタバサは今、かちかちと自分の脳の中で、何かが音を立てて組みあがっていくのを泰然と眺めていた。
 前提がある。
 彼女の母の心を直すためには、秘薬を、またはその精製法を見つけることが必要だ。マジックアイテムでもいい。事実、タバサが国境を越えて学院に入学したのは膨大なライブラリーを当てにしてのことでもある。
 前提を崩してしまう方法がある。
 力づくで無能王ジョゼフから王位を簒奪し、大本の秘薬、そしてあるであろう解毒薬を配下の者に持ってくるよう一言いえば良いのだ。
 しかし、若いながらもトライアングルであった(見があった)タバサにとって、王家が振るう組織力は強大であり、自らが他人に働きかけて対抗勢力を作ることは非現実的であった。己一人を鍛え上げ敵対するなどもっての他だ。
 しかし今、目前で、その怪物が猛威を振るっていた。
 あの一人は、組織に匹敵する。

「ムーン、月の良い夜にこんばんは」
 突然現れた胡乱な男が言った。己が組み上げたゴーレムの背に乗って、学院の庭を闊歩していた土くれのフーケだったが、予想外の遭遇に思わず思考の空白を作ってしまう。
 二人の間に無言が降りた。奇怪なムーンフェイスの容姿に驚き、そして今まさに犯罪行為に出ようとしていたところを見られたフーケと、幾日かぶりの食材を吟味していたムーンフェイスのそれぞれがお互いを観察しあう。
「私はこんばんは、と言っているのだけれどね」
 ふと、フーケの耳元から声が男の聞こえる。いつの間に接近を許したのか、と素早く目を走らせる彼女だったが、ムーンフェイスが最初の位置から動いていないことを確認して眉を跳ね上げる。
 今のは何だ。風に声を乗せる魔法でもあったのか。それともこの男は、あの悪趣味な遍在魔法の使い手だとでも言うのか。
「……こんばんはジェントルマン。不思議な被り物だね。
 あなた、メイジ?」
 いや、とフーケは思う。自分の口に出してみて気付いた。目の前の男は杖を持っていない。
 ならば問題はない。平民のどんな小細工も全て、ゴーレムの拳で叩き潰してしまえる自信がある。土でゴーレムを作るというありふれた魔法でありながら、自分の魔法は王都の全ての貴族を手玉に取ってきたのだ。
 それは己の魔法に対する自信であり、そしてその自信が過信や自惚れではないという自信だった。
「ムッ……。被り物といわれるのは、あまり愉快じゃないな」
 ムーンフェイスはそう言って自前の笑みから感情を抜き取った。一足先に相手の観察を終えたフーケの視線は不快だった。
 緩慢な動作でポケットから三日月型の小刀を取り出す。片手に持ったまま、ムーンフェイスは何をする訳でもなく佇んでみた。これは挑発だ。
「君は盗賊の土くれかな。その愚鈍なゴーレムの強さはどれほどの物やら」
「うるさいね。何がしたいのか知らないけどさ、さよなら」
 しかし、正面に立ったフーケも堂々としていた。
 ムーンフェイスがする何かを見守ることもせず、正面から飛ばされた唾を吐き返すこともせず、ただ淡々とゴーレムに拳を作らせた。彼女にとってそれは、土よりも軽くて、土よりも柔らかいだけの宝物庫の門の前に用意された壁にすぎない。
「知ってるかい、人間の体っていうのは、ぺしゃんこになるときはその辺の屑鉄とそう変わらない音が……音が……、あれ?」
「潰れるときは、人間なんかよりその屑鉄の方がよっぽど感情的な断末魔を上げるものだ。
 ……ムーン、君は少しセンスが足りていないな。土くれのフーケ」
 フーケはローブの奥でち、と舌を打った。どのような仕組みかは解らないが、目の前の男は片手で自分のゴーレムの拳を受け止めていた。
 憎いほどの怪力を、涼しい顔でさも当然のように見せている。一々気の障る男だ。フーケはそう毒づくと共に先ほどまでとは比べ物にならない程の警戒を用意した。
 冥土の土産の筈のリップサービスが、あろうことか殺し損ねた相手にセンスがないと非難されるだなんて、想像出来るはずがない。
「……ったく!なんだってのよ」
 不敵に笑う、何から何まで神経に障る男を睨めつける。彼女の勘がこれ以上ないほどに警告を鳴らしているのだ。まだ、まだ警戒が足りない。まだ足りない、まだ足りない。
 フーケは過去最高と言っても過言ではないほどに集中していた。あの敵から目を離すと危ない。耳の奥から聞こえる警告に従順になることは命を落とさずに生きるコツだ。
「あなた、一体何なのよ。私のゴーレムは最強だとか、そんなこと、そんなばかなこと、言うつもりはないけど」
 命一杯の力を目元に込めてムーンフェイスを観察する。あれを見失ってはいけない。あれを視界の外にやってはいけない。

 ぶれた。

 不味い。フーケは勢いのままに唇を噛み切った。そして必死に目元を擦る。目が病んできた。視界がはっきりとしない。フーケの目の中のムーンフェイスは、二次元のコマのようにぶれだしていった。
 月が欠けていく。
 月が満ちていく。
 うまく視点の定まらない彼女の目と呼応するように、左右に左右にとその男は増えていく。
「やられた!まさか私の気付かないうちに、眩惑系の秘薬か何かで」
 そこでぷつん、とフーケは事切れた。
 ディナーの時間の始まりには、いただきますの一言があれば事足りるのだ。
 59人のムーンフェイスは、一斉に食事を始めた。

 耳に障る咀嚼音に我を取り戻したタバサは、慌てて使い魔に風の迷彩を解かぬまま戻るように言うと、急ぎで、しかし決して音は立てずに窓を閉めた。
 最後まで己の幻覚と勘違いしていたフーケは幸せだっただろう。正しく理解してしまったが故に慄いたタバサとは違う。しかし、そう、あれは酷く魅力的なものだった。
 彼女はゆっくりと、最後に目に焼きついた男の唇をなぞる。
 わ、た、し、は、ホ、ム、ン、ク、ル、ス、だ。
 禁忌の徒か。タバサは姿見を覗き込む。思ったとおりだ。唇は青白く毒々しい色をしている。そしてやはり、思ったとおりだった。頬はかつてないほどに赤く色づいている。
 タバサは興奮していた。
 本当に素晴らしいパフォーマンスだった。


/


 人間を食い殺せ。侵食しろ。そして嚥下して己に還元し、人間を取り戻せ。
 ムーンフェイスが人を前にしたときに耳の奥でがなる声が言う事は、決まってこれだった。
 ホムンクルスは人間を超越した人工種だ。腕力に限らず、凡そ人間の考えの及ぶ全ての箇所が単純に強化され、不老不死の種となった。彼らを滅ぼせるのは、この魔法の国のそれとは違った錬金の力だけだ。
 土のメイジが使う魔法とは違う、ホムンクルスという名の科学技術と対になる力だけなのだ。この世界にはない。
 まるで天敵を失った肉食動物のようだ。だが、これは栄養を得るための食事ではない。
 ホムンクルスとなった者は、例外なく強い飢餓感に襲われる。人間を捨ててホムンクルスとなった者は、ホムンクルスという新たな体を手に入れる。だが、その捨てた人間の部分に対する未練は凄まじく、細胞の一つ一つが人間に餓えるのだ。
 それはある種の本能だが、ムーンフェイスはそれを悪しとは思わない。
 それがホムンクルスだからだ。
 理性で全てを押さえつけるのは人間だけで良い。ホムンクルスとは、開放なのだ。
 ムーンフェイスは右手に持った肉片に目を落とした。メイジという種族の肉はとても旨い。彼らが行使する魔法という力と何か関係があるのか。その体に篭った魔力がホムンクルスに力を与えるのか。
 魔法という力は非常に興味深い。ムーンフェイスにとっては未知の力だ。もしかしたら錬金の力のように、ホムンクルスにダメージを与える魔法も存在するかもしれない。
 だが、ともムーンフェイスは思う。
 自分が害されるかもしれない、殺されるかもしれない、自分を制する力を持つ者がいるかもしれないというのは、本当に些細な事だ。
 その緊張感もまた、長い人生の内の娯楽の一つなのだから。

 眼下で人間を捕食するムーンフェイスを見ながら、ルイズはぷちんと唇を破った。じわりと口の中に生温い血液が浸透する中、視線は窓の下、食事になっているフーケから離さない。
 嫌味な笑い方をして自分の技能をはぐらかす使い魔が、その一端(彼は何でもないことのように一瞬で59人に分裂して見せた)を見せていることも視線を外さぬ理由の一つだ。
 だが、ルイズの今はまだちっぽけな貴族としての本物の矜持が、使い魔の悪行から目を逸らすことは許さないと叫んでいた。
 これがメイジとしての、貴族としての責任なのだろうか。ルイズは自問する。
 使い魔の餌を調達するということが、これほどに難しいとは思わなかった。これが使い魔を持つメイジとしての勤めなのか。
 ルイズはふと、お守りのように握り締めていた自分のか細い杖に目を落とした。
 ほんの数日前の召喚の儀、そこで生まれて初めて自分は大掛かりな呪文に成功した。あれは忘れがたい快感だった。この使い魔は私に四大の魔法の才を与え、学院生からの惜しみない賞賛を与え、家族からの忌憚のない愛を与える。この使い魔が、私に名誉の道を教唆する。
 彼女はそのとき、本当にそう思ったのだ。十七という歳で、些か子供染みているとは思う。それでも、これから私はゼロのルイズではなくなるんだ。そう、声を大にして主張したかったのだ。
 恥ずかしいことだが、ルイズが使い魔の召喚を成功させた自分の魔法の出来を確かめたのは、今日になってからのことだった。
 ムーンフェイスの召喚当日の粗相(食事)で学院内が騒がしかったこともあって、授業以外で四大の魔法を使うことのなかった(ルイズの失敗は非常に良く目立つので、課外に努力を重ねようものならたちまち嘲笑の元となる)ためかすっかり忘れていた。
「あんな惨めな思いは、もう、本当にごめん」
 無意識に口を開いたせいか、唇から入り込んだ血が舌の上で滑り出す。惨めな味がした。この味は、つまらない(真実のメイジにとっては必要ない)常識を捨てきれない自分の味わうそれだ。明日から頑張る、明日からは違う。
 これからは母に頼れぬ道を進むことになる。父に誇れぬ道を進むことになる。
 長姉の前に立つことも、次姉の言葉を聞くことも出来なくなるに違いない。
 私は頑張ろう。
 どんなことに手を染めても、ルイズというメイジの魔法の証明である使い魔、ムーンフェイスを手放さない。
 しかしこれは辛すぎやしないか。私は良い、私は耐えられる。私の使い魔がそうならば、私はメイジらしく使い魔と生きよう。
 けれども人間から食事となったあの女メイジ(驚くことに土くれのフーケは女性だった)に、そんな覚悟はなかっただろう。捕食という行為はこうも一方的だったのか。なんて恐ろしく、そして悍ましい。
 それはどこか貴族と平民の関係に似ている。ルイズは思った。
 そして二つの月が見守る中、ルイズの心を酌んだ訳ではないだろうが、次第に骨をも巻き込んだ激しい咀嚼音は収束へ向う。
 音が完全に消えるころには、一人の人間がこの世に居たという証拠はなくなっていた。

 トリステイン魔法学院、膨大な人数を内包しているこの学院で、召喚の儀を越えて最も辛く苦しい思いをしたのはルイズではない。彼女は二番目だ。
 では一番に苦しんだのが誰かと言えば、召喚の儀の監督をしたコルベールという教師だろう。
 その彼は今、自室で荷造りをしていた。
 自分はあまり人付き合いの得意な人間ではないが、狭い学院だ。噂は良く聞こえる。コルベールはレポートを綴じながら思った。無頓着な性格が災いしてか、室内に散らばった研究レポートは一向に纏まらない。
 同僚達はみな、コルベールの辞任を遠まわしに望み、そして新入生の死の責を全て自分ではない誰か(コルベール)が背負うことを望んでいる。噂話とはどんなに小声で話していても、自然と当事者には聞こえてくるものだ。
 自分の研究は理解し難いもの、それはコルベール自身が嫌というほど理解していた。火の系統の魔法を戦争以外の局面で役立てる、その理念が自分で一から組み立てねばならないほどに一般的ではないことも。
 もしかしたら自分をも騙せていなかったかもしれない。この研究は本当に成果を出せるのか。そう自分を疑ってきたこともあった。だがしかし自分は研究を続けられた。
 昔のコルベールは軍人だった。その炎の魔法を数多の人を殺すために使った。
 今のコルベールは教師だ。その魔法を先ある若き生徒たちのために使っている。
 生徒が自分の指導によって一つ一つ魔法を覚え、彼ら彼女らが現れた炎を指差して笑う。それは闘争的な火の魔法を揶揄したものではなく、できたことに対する喜びだった。
 初めて教師としてこの学院に赴任し、その光景を見たコルベールはブリミルに己の道を示唆された気がした。今でも忘れない。あの光景が、自分に平和を作る火の系統の夢を見せてくれる。
 だからこそ、己の監督不届きで守るべき生徒を殺してしまったことが、本当に悔しかったのだ。
 コルベールは纏め終えた荷物を見て寂しげに頷くと、辞任の意を記した羊皮紙のサインを途中で止める。
 学院長に直接言いに行けば引き止められるだろう。思えば軍の暗部に多少関わりのあった自分が転職できたのは、そこがオールド・オスマンの支配下であったからこそだったのかもしれない。それに、あの翁の平等な気遣いは正直心地よかった。最後まで思い出したくない。
 さて、然様なら失礼しようじゃないか。ここはとても良い学院だった。
 彼は羊皮紙に最後の一文字を記入すると、そっとペンを置いた。


/


「ギーシュの怪我、完治したって。聞いた?」
 トリステイン魔法学院で、暫し休止していた授業が再開した。止まっていた時間を取り戻すように慌しくなるかと思われたが、そこは貴族の子弟を対象とした学校ということだろうか。
 こうして呑気にティーカップを傾ける時間は便宜が図られている。ルイズは(他の沢山の貴族たちと同じように)その心遣いに特別な感慨を覚える訳でもなく、開いてしまった時間を埋めるようにモンモランシーに話しかけた。
「そろそろだとは思ってたけど、今日だったのね」
「あれ、あなた知らなかったの?
 呆れた。仮にも自分でやったことでしょうに」
 仮にも元恋人でしょうに。色恋沙汰に疎いルイズにも、その言葉を選ばない程度には分別がある。この類の会話も久しくしていなかった自分と、友人の居ない日常がどれ程詰まらないものか再確認してしまった自分に驚きつつの選択ではあったが。
「興味ないもの。仕方ないじゃない」
 その言葉には一片の嘘も含まれてはいないようで、モンモランシーの視線は目前でテーブル上の果実を切り分けるメイドに注がれていた。ルイズの視線も、釣られるようにメイドにいく。
「悪いんだけど、グレープはそのままで良いわ」
 ルイズは、葡萄を小皿用に乗るサイズの小さな房に切り分けようとしたメイドを遮った。
 確かにルイズもモンモランシーも、葡萄は特別好みではない。だが、普段ならば態々メイドを遮るような事はせず、出された葡萄をテーブルにそのまま残していくだけだ。他のテーブルも全く同じである。
 やはり遮られたことなどなかったのか、メイドは驚いてナイフを落としてしまった。
「す、すすすみま、も、申し訳ございません。貴族様の前で、このような粗相を」
「気にしないで頂戴。……その、ええと、悪かったわ。浮かれてた」
 友人の好みを知っている。
 ルイズは少し、その事を自慢したかっただけだった。
「私からも言うわ。こんなことで気を揉まなくても結構よ。
 ところで私、ピーチがとても好みなの。お詫びと思って、今日だけこっそり大きめに切って下さらない?」
「は、はいっ!」
 ナイフを持ち直し、メイドは静々と作業に戻った。その日、ルイズとモンモランシーは日が落ちる前、肌の寒くなる前まで話し込んでから思い出すように席を立ち、並んで寮塔の部屋に戻った。

 次の日、午後になってまた二人は談話に興じていた。
 二人の声を介してころころと話が作り上げられていくのは、つい先日図ったように失踪したコルベール、ロングビルの二名のことだ。
 ここ数日、コルベールがロングビルに話しかけられて鼻の下を伸ばしている姿が度々目撃されていたという話をルイズが持ち出せば、
モンモランシーがハゲの教師に色目を使われたという女生徒の話(真偽は定かではないが、モンモランシーは向かいに座るルイズの楽しそうな顔があれば良かった)を持ち出す。
「ねぇ、それであの二人ってば、どこに行ったんだと思う?
 モンモランシー、あなたもしかして知っているんじゃないの?」
 ルイズは本当に楽しそうに笑う。その明けぬけなさまはどこか、思考の停滞を窺わせた。
「あら、どうして?」
「だってあなた、言いたくて仕方ありませんって顔、してるわよ」
 まぁ、とでも言うようにモンモランシーは口元を隠した。
「コルベール先生の方は解るわ。あの人、結構単純なのよね。
 秘書さんの方も、予想は」
「なによ、教えてくれたっていいじゃない」
 可愛らしい同級生ですこと。唇を尖らせる仕草を見て、モンモランシーは思った。だが釘を刺さねば。
「ルイズ」
 普段よりきつめに視線を返す。たった今ルイズの見せた、慣れない友情に甘えて堂々と他人を非難する猫のようなさまは嫌いではない。少しもったいないな、とも思った。
「あ……、ご、ごめんなさい。モンモランシー、許して頂戴。
 そうよね、友達にも、言いたくないことだって、あるわよね」
「ええ、"友達にも"あるわ。ルイズ。心配しないで」
 コルベール、ロングビル共に失踪の理由はルイズの使い魔に因るものだ。モンモランシーは、存外に楽しいこのルイズを伴う学生生活に、揺れを持ち込みたくないと思っている。
 一口分だけ、ティーカップを傾ける。それからかちゃりとテーブルに落ち着けてから、二人は手を膝の上に戻した。
「失礼します」
 ルイズとモンモランシーの前に、クリームとケーキで三分の一だけ彩られた大皿が並べられる。昨日と同じメイドはそのままゆったりとした動作でテーブルフルーツを二つ、三つほど取ると、その場で盛り付けて見せた。
「あら素敵。これって、ピーチがメイン?」
「はい。私のデザインなんです、その、料理長にお願いして」
 そのまま二人の貴族が見守るなか、メイドは丁寧に二枚の皿を飾っていく。メイドの仕事を、態々手を止めて待つ貴族は居ない。会話を遮らぬよう、一歩下がって行うのがマナーだった。
 困ったな、とメイドは思う。素敵な貴族様だ。普段なら作業に徹して行うはずの一つ一つを見つめられていると思えば、頬が火照ってしまう。けれど悪い気はしなかった。
「ルイズ、見て。このデザート、あなたの髪と同じ色」
「も、もう!……その、ありがとう」
 気が利くのね、ありがとう。ルイズの可愛らしい感謝に影響されたのだろうか、トレイを持って下がろうとしたメイドを手首で呼んで、耳元でモンモランシーはそう囁いた。
 頬をさらに赤く染めて去っていくメイドを、モンモランシーは満足気に見つめていた。

 貴族は平民とは違う生き物だから、この世界の仕組みに絶望しよう。自分の不運には絶望しないようにしよう。
 そのメイドは、自分の決意が崩れていくのを感じていた。
 なんて嫌らしい出会いなのだろうか。たったの二日、時の過ぎ方によっては夢と錯覚してしまえる程に短い時間だった。もっと長くこの学院でメイドをしていたかった。
 彼女は自分を粉々に砕いてしまうであろう出会いを、心底恨んだ。
 唯一幸運だったのは、彼女がこうして言葉を交わす前のルイズ・フランソワーズを知っていたことだった。辛いときには唇を噛んで耐えるもの。耐えた先には、こうして、先ほどのように笑うことができる。
 きっと自分が幸運な存在であったなら、いつの日か笑うことができるはずだ。

 その次の日、普段のように二人は談話に興じていた。
 次から次へと移ろう会話をこなしつつ、お互いの心をくすぐるデザートがやってくるのを待つ。
 しかし、生憎なことに、茶色の髪をしたメイドが二人のテーブルにやってきて、(他のメイド達と同じように)こっそりと二皿のケーキを置いて立ち去ろうとした。
「あなた、ええと……短めで、黒い髪のメイドはご存知ないかしら?」
「はい、こちらのテーブルを担当していたメイドですか?
 私は昨日を最後に学院の厨房付きを外されたとしか……」
「え、そうなの?残念ね。まぁ、いいわ。ありがとう」
「いえ、では。失礼します」
 ルイズとモンモランシーは先ず、昨日のデザートと比べると些か貧相な今日のそれを指さしながら閑談し、日が暮れるころ寮塔に帰った。


/


 土くれのフーケの犯行が、荒くなったという。学院でもその話を良く聞く。
 突然現れては家を荒らされた主を貶すように一つ、宝を持っていく。それがこれまでのフーケの犯行だった。だが、最近はどうも違うらしい。
 家の貴族も、傭兵も、平民も全て消えてなくなるそうだ。王宮では今、実はフーケはメイジではなくエルフだったのではないか、そういう推論が主流らしい。
 最初はフーケの名を語った盗賊団(それもかなり大人数)の犯行ではないかと疑う者も居たが、大人数で移動しようとすれば、必ずどこかに目撃者が出る。これは直ぐに次の情報に却下された。
 フードで顔を隠した不審な男、これが現場の近くで必ず目撃されていた。これまでの目撃情報とも一致する。近々討伐隊が組まれるそうだが、恐らく見つからないだろう。
 タバサは一つ、先日図書館で本を読んでいた自分に話しかけてきた彼と、これまでの犯行と比べてもう一つだけ変わった点のことを想起した。
 事件はここ数日、立て続けに起こっているが、犯行声明が全て同一だという。

 すべていただきました
       土くれのフーケ

 確かに死んでしまっては、何もない。タバサは一度だけ身震いした。

 近頃ムーンフェイスは、同学年のタバサという少女に文字を教わっているらしい。朝、キュルケの部屋を訪ねたルイズは部屋の主の彼女にそう聞いた。
 キュルケはムーンフェイスが自分の生活圏を侵害するのが我慢ならないようで、しきりにタバサ(友人らしい)のことを心配していた。それでも、ルイズを前に一つの毒も吐かない姿勢は大人だった。
 彼女のようになりたいな、と思う。
 高い身長と、どんなに離れていても人の目を掴んで離さない赤い髪、そして抜群の肢体。魔法の才に恵まれたトライアングルであることも理由の一つだったろうか。
 全てルイズにはないものだ。
「なによ、これ。ほんとはライバル意識とかじゃなくて」
 劣等感ではないのか。これでは対等に張り合うことなどできまい。ルイズが自慢できるものといえば、ただ、家名に歴史があるということだけだというのに。
 それですら、少し王家と親しいというくらいのものだ。
 お金があれば平民でも貴族になれるゲルマニア。そう言って良くキュルケの事を罵ってきたルイズだったが、ツェルプストーの家がそれこそ、ヴァリエール家が国境に領土を構えた頃からの隣人であることはきちんと知識として持っていた。
 ゲルマニアの中でも古く、そして財を併せた発言力のある家柄だ。
「困ったわ」
 ルイズは呟いた。厭らしい事実に気付いてしまった。これではもう、昨日までのようにキュルケに反発することなど出来まい。
「何が困ったの?ルイズ。それとあまり動かないで。もうちょっとだから」
 ルイズは一言ん、とだけ返してから目を瞑った。
 目蓋の上を筆の感触がなぞってゆく。長い目尻の妖艶さに併せて、惣暗な目元が出来上がる。ルイズはこれが完成するたびに、指の腹で触ってみたくなる自分を自制する。きちんと、出来上がっているのだろうか。
 段々と浮き出した右手をルイズは膝上に下ろした。口元から溜息が漏れる。厚い化粧は表情を重くするのだ。
「なぁに、真っ暗な顔して。心配要らないわ。
 何を隠そう私は化粧の達人!使い魔だって絶対貴女に惚れさせてみせる」
 おしまい、と言ってルイズの両肩を軽く叩いたキュルケは、沈みがちな彼女を鼓舞するように声を上げた。
「どうしたの?化粧をして、使い魔に気に入られるんじゃなかったの……?
 そりゃあ褒められたものじゃないと思うけど、少し影がある方が素敵、っていう殿方も結構多いのよ。
 実害があるわけじゃないんでしょう?」
 キュルケはそう言ってから、しまった、と思った。どうもルイズを見ていると、絶対に秘匿の必要のある実害があるようなのだ。そして"あの事件"の後、他の猛獣系の使い魔を召喚した二年生と共に学院長室に召喚された身だ。想像はつく。
「……実害なんてないわ。ありがとう、キュルケ。
 今日も頑張らなくっちゃね」
 健気に微笑む好敵手を、とキュルケは思いかけて止めた。表すならきっと、健気に微笑む妹分、だろう。
 もう一度、キュルケは健気に微笑む妹分を見て、ゲルマニア的な一つの結論に行き着いた。トリステインのルイズ・フランソワーズであれば、慙愧に耐えないと脳裏を掠めることすらしない行為だが、幸い彼女には選択肢の一つとして見えている。
 ならば実家に手紙を書かなければなるまい。あれには何よりも、魔力が必要だ。

 部屋の惣暗を冬の日のたった一本の蝋燭のように守りながら、そのメイドの少女は蹲っていた。
 一昨日までの忙しないが遣り甲斐のある、そして明るい仕事仲間に溢れた職場とは違う場所だ。十七歳の彼女とは歳の近い同僚が多い場所だったが、それだけだ。皆一様に精気を削ぎ取られた顔をしている。
 この身体に溜まった淀みを、隅から隅まで洗い流して吐き出す必要があるだろう。メイドは思った。しかし、涙を流そうにも、痛いのだ。目元は血の色で腫れ上がり、喉はかすんでしまっている。
 死にたいと望むことは良くない。
 確かにこの痛みは、身体の痛みは耐え難い。もう一度だけ耐えた強い苦痛の先に望むものがあるのならば、きっと自分はナイフの一突きを躊躇しないだろう。
 ならば何が躊躇わせるのか。少女の耳に向かって、部屋の中、暗がりの隅々から幻聴が飛び込んでくる。その声に配慮はなく、がりがりと音を立てて少女の心を削っていった。彼女は耐え切れなくなって、貴方達は思い違いをしている、と何もない場所に向かって叫んだ。
「痛みから抜け出したいんじゃない。苦しみから逃げ出したいんじゃない。私は、私は……」
 幸せになりたい。
 かりかり、と肌触りの悪い毛布に爪を立てる。生理的な嫌悪が先立つが、質は上等なものだろう。最古参だという女性によれば、伯爵の覚えが悪くなったら、これらの必要品の質が一段下がるそうだ。
 その女性は疲れた顔をして、せめて自分の部屋で寝るときくらいはぐっすりと、そう言ってくれた。
「こんなの、慰めになんか…」
 少女はたった数日前の邂逅を思い出していた。一年間落ちこぼれとして蔑まれてきた貴族の少女は、あのときあんなにも楽しそうに笑っていた。きっといつか、自分にも彼女のように笑える日がくるのだろうか。
 少女のいつかの日は、彼女が待っていても向こうからはやってこない、その考えに行き着いたときにやってくる。
 今はまだ、ここでも厨房付きになった自分に苦笑しながら、無感動にテーブルナイフのくもりを拭いている。


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 貴族は大変な仕事だ。
 ルイズには、自分が勉強家だという自負がある。享楽に耽る生徒が多い中、婚約者も居る三女(家の名は何段か落ちるが、人生を全うする上で一切の思考を必要としない子爵婦人が約束されている)でありながら、領地経営にも伯爵である父親に一言いえる程の知識を持つ。
 貴族は魔法をもってしてその精神をなす。その通りだ。トリステイン魔法学院は、魔法が使える人間を育成するのではなく、貴族を育成する。卒業する生徒それぞれを一人前の貴族にすべく、多様なカリキュラムを組んでいるのだ。
 定期的に開かれるダンスパーティもそうだし、大人数で取る毎日の晩餐は、学院を出ればそのまま貴族の仕事(社交)となる。
 だがしかし、とルイズは思う。それらはレクリエーションの域を抜けていないのだ。生徒たちは、毎日の魔法の研鑽のための息抜きとしか考えていない。そしてそれらは貴族が貴族たるために必要だが、その貴族は国家には不要だ。
 執務も満足に熟せない貴族など、国家には不要だ。この結論に至ってルイズは一つ疑問を提起する。
 本当にそうだろうか。確かに領地を治めることは大切な仕事だ。しかし、多くの貴族がその仕事を厭いつつも国は回っている。その多くの貴族らは、自分がしたくない(出来ない)ことを平民に任せる術を知っている。
 王都には、執事の養成機関がある。そこでは貴族が必要とする魔法以外の全ての知識を教えているという。領地の経営は貴族が行う、これはもう何千年も前から建前でしかないのだ。堂々と執事長を筆頭とした執務室を作る貴族も居る。
 貴族、貴族か。ルイズは自問する。誰に教えられるわけでもない、当たり前のことが一つある。貴族の仕事とは魔法を行使する事だ。
 魔法は平均水準の生活を得るために、なくてはならないものである。病を治すためには水の魔法が不可欠だし、人間の持つ道具のほとんどは土の魔法がなくてはありえない。そfして何よりも、抑止力として魔法は意味を持つ。
 貴族が領地を治めるとき、最も頭を悩ませるものが盗賊である。不作には税を緩めてやれば良い。そして、あまり大声では言えないが、定期的な聖地への遠征が国民総数の調節を行う。
 日々の労働に見合った対価では満足できなかった者が盗賊になるのだが、曲がりなりにも一度犯罪を働いてしまった者(盗賊になると決心して野に下っても、不法を働かないうちはただの旅人として扱うことが出来る)を領主が保障する訳にもいかない。
 ところが、だ。日々の労働と対価に満足できなかった者も、盗賊に身を窶す前に一度損得勘定をする。果たして全財産を叩いて買った武器を、他の人間に脅威と認めさせることは可能なのか。
 そこで立ち塞がるのが領主の行使する魔法である。平民は貴族に敵わない。彼らはこの言葉を耳に胼胝が出来るほど聞かされて育つのだ。彼らは考えを改めて日々の労働に戻る。
 ルイズはああ、とそこで自分の考えに納得した。
 ゲルマニアの、富を持つ者は魔法を使えなくとも貴族になれる、という考えは合理的だ。魔法の使えぬ彼らは例外なく、その持ちえた富に飽かせて名を轟かす騎士団を組み上げる。あの国はそれが解っているのだ。
 かの国がトリステインと比べて遥かに強国であるのは、国土の違いもあろうが、民一人一人の商いに対する意欲の違いもあるのだろう。
 ルイズは、もし自分がゲルマニアの平民として生まれたならどうだったろうか、それを考えようとして、やめた。
 魔法は確かに素晴らしい技術の一つだが、この世の全てはルイズ自身が全ての結果を把握、予想できていたならば、それらは必ず何らかの形で補うことが出来るということが解った。
 精一杯のヴァリエールを全ての国家に見せ付けてやることに、もしかしたら生きがいを見出せるかもしれない。

 ルイズは普段ティータイムを共有しているモンモランシーに一言断ってから、広場でキュルケを探していた。己の考えを、一度生粋のゲルマニアンに聞いてもらいたかったのだ。
 目を惹く赤毛はすぐに見つかった。そのまま彼女に声をかけようとしたルイズだったが、同席者が居ることに気づいて一言断りを入れた。
「こちら、いいかしら」
 青い髪の同席者はちらり、とこちらに目だけ向けて、どうぞ、とでも言うかのように口を開き(ルイズは唇の動きを追ったが、声は聞こえなかった)、そして視線を手元に落とした。そこに分厚い本を認めてから、ルイズは一度キュルケを伺い、テーブルにつく。
 控えていたメイドに飲み物を持ってくるように言うと、早速ルイズはキュルケに向かって自身の考えを語った。
「……私も、何が言いたいのか解んなくなってるわ。でも、そんな風に思ったの」
「そう。そうね、ルイズ。多分私でなくてもこう思うんじゃないかしら。
 あなたって、沢山の選択肢を持ってるのよ」
 それからキュルケは、自分の足元に横たわっていたサラマンダー、彼女曰くフレイム、の頭を撫でた。主人の関心が嬉しいのか、フレイムの尾に灯る炎が勢いを増した。
「ほら、私は火のメイジでしょう?使い魔もこの仔だし。
 ルイズ、あなた、火のメイジが順当に成長して、大成したときに何が出来るかいくつ挙げられるかしら」
 ルイズは指折り数えてから、キュルケに向かって指を三本だけ立てて見せた。
「ええ。成績だけは良いあなたでもそのくらいね。ツェルプストーの私だって、それに一つか二つ足したくらい。
 火の系統は本当に戦闘だけなの」
 ルイズはそう謙遜する彼女に向かって、徐に頭を下げた。火の系統に絶対の自信を持つキュルケのことだ、自分を立ててくれたのだろう。彼女もその感謝を受け取るようにくすりと笑ってから、話を進める。
「いざ私たちが学院を卒業したとき、全うに貴族をするために必要なものはあまり多くないわ。
 トリステインは格式ばっかりでうちとは違うと思っていたけど、あなたならきっと大丈夫ね」
「そう。ええ、そうね。……ありがとう、キュルケ」
 そう言って、ルイズは椅子に手をかける。具体的に何が解ったわけではない。ただ、励まされただけだ。それでもこうして会話をするひと時を持つ度に、友人という存在の素晴らしさを彼女は噛み締めていた。
 ふと、何かに気づいたキュルケが手のひらで、向かいの少女を示す。ルイズが顔を向けると彼女は、ぱたん、と音を立てて本を閉じた。そして口を開く。
「民の信頼と応える貴族の誇りがあれば、領地も、国も上手くいく。
 ただ、いつか強大な害悪が現れたときに、それを跳ね除ける力が必要」
 あなたは、それを魔法と言ったけれど、厳密には違う。そう言った少女の瞳に、ルイズは囚われた。何故だか解らないが、敬愛すべき父(偉大な先達)に助言をもらうように、気づかぬうちに緊張している。
「使い魔召喚の儀は、そのメイジが必要とする使い魔を喚ぶ。
 ――あなたはもう既に、どんな害悪をも跳ね除ける力を持っている」
 私はそれが羨ましい。そう言ってまた本を開いた少女を、ルイズは暫くの間、ぼうっと見つめていた。


/


 今日は雨が降っている。
 ルイズは視界に窓が入る度、粘土のように心の隙間を塞いでいく憂鬱な気分に折り合いをつけつつ、朝から読み進めていた本のページを捲った。
 キュルケの部屋を訪ねる何人もの学友のうち、一体どれだけの人数が彼女の本棚に目をやったのだろうか、と考える。外の暗さがもたらす気分を払拭してくれる程度には、この本は面白い。ゲルマニアの商家の娘は伊達ではないということだろう。
 男性周りが派手なことで知られるキュルケだが、社交的で力(魔力)を持ち、良い家柄の彼女には友人が多い。男性関係で彼女と衝突するもの、自分にはない力を妬むものも少なくないが、その逆もまた少なくないのだ。
 羽ペンを黒インクの海に挿し込んだ。この羽は、家を出る際に次姉の友人から頂戴したものだ。もう一年にもなるが、固定化の魔法も使わずに、随分長く使うことができているなあ、とルイズは思う。
 魔法を使えない自分は嫌いだったが、こうして固定化も使わずに物を大切に使う自分は好きだった。
 いつか魔法の使えない自分のことが好きになったとき、その気持ちは無くなってしまうのだろうか。ぱたりとこの気持ちが無くなることはないのかもしれないが、いつかその気持ちを忘れる日が来てしまうのかもしれない。
 ルイズは埃のついている部分を撫で付けると、瑠璃色をしたそれのくすまぬ艶に少しだけ微笑んだ。
 窓の外では変わらず雨が降っているが、気分はあまり悪くなかった。
 曇天が月を隠している。使い魔はどこかに出かけてしまっているし、今日はモンモランシーの部屋へ行こうか。
 ルイズは本を閉じると、今日の研鑽をブリミルとキュルケに感謝してから机の上を片付けた。メイドに洗濯してもらった愛用の枕(モンモランシーの部屋までの廊下は、これを抱えて歩くことになる)に汚れがないことを確認する。
 湿り気に弱い枕だが、軟らかさは折り紙つき。そう言って毎晩のように枕に顔を埋めていた自分もまた、悪くないと思いながら、ルイズは部屋に鍵をかけた。
 ロックの呪文ではなく、古い金属の錠に頼ったものだ。学院から体裁のためか配布されるが、二年生にもなって使う生徒はいない。
 布団の中でモンモランシーの腰に腕を回したとき、彼女が、首元に当たって痛いわ、そう言っていたのを思い出す。ルイズは鍵の革紐を首にかけるのではなく、手首に巻いてそっと握った。
 ドアの開く音、閉じる音、そして鍵のかかる音を、向かいの部屋で内側からドアを背にしたキュルケが、左手に持った小瓶を揺らしながら聞いていたことを、ルイズは知らない。

 九十分の一の報われない一人に、小瓶はもう一度希望を与える。
 そしてそれは、代償に真赤な杖を要求するのだ。
 これは自分のお節介だ。キュルケはきちんとそれを認識していたし、ルイズが本心に近いところでこの節介を拒絶するだろうという確信もあった。しかし、彼女はルイズの、手のかかる妹のような声と仕草を取り戻したいと思っていた。
 生徒にはまだ、伝えられていない。昨日ギーシュが行方不明になった。
 早急に荷造りをしなくては、とキュルケは小瓶を机に置いた。恐らく、と彼女は前置きしてから仮説を反芻する。見てしまったり、気づいてしまったりした者が処理されないために必要なのが、きっとルイズのあの目なのだろう。
 明日からは、ルイズの顔を作る人間が居なくなる。明日の朝一番にこの部屋を訪ねた彼女が、誰も居ないことに気づいたときどんな顔をするだろうか。あの似合いもしない冷め切った顔で、くるりと部屋を見渡してから失望するのだろうか。
 少し出かけているのかしら、と呟いてからキュルケを待つのかもしれない。そう思って机に向かう。
 恋文のように熱い筆を執ろう。色香で万人を惹きつけてやまないツェルプストーの本懐だろうか。くらりと見たものの判断力を奪って、そのまま引かれるようにこちらに倒れてしまうほどに、情熱的に筆を執ろう。
 (年上の余裕を込めた読み解きやすい文章をキュルケは書いた。人を落とすときに余裕を持つことはとても重要であると彼女は知っていたが、逃支度をしている今は持ち出せる余裕に種類がなかった)
 翌朝、キュルケの部屋を訪れたルイズによって、学院中にキュルケが失踪したことが広まる。同時にギーシュの不在も発覚した。
 いけない。逸ってはいけない。教師にキュルケの不在を告げてから、足早に自室へと戻るルイズは、胸元に隠した小瓶と一通の手紙に手をあてた。
 部屋にも戻らずにまず教師の元へと向かったのは、手紙にそう書いてあったからだ。手紙は早急に焼いてしまうべきだし、小瓶は、使うときまで誰かの目につくことがあってはいけない。
 特に、全てが始まる前に己の使い魔の目につくことがあってはいけない。

「おはよう、ルイズ」
 きゅっと唇を噛み締めて自室のドアを開けたルイズは、中にムーンフェイスが居ることを認めると緩慢な動作で扉を閉めた。小瓶のための膨らみを見咎められはしないだろうか。
「ええ、おはよう。ムーンフェイス。……ちょっと、試してみたいことがあるんだけど」
「何かな」
「あなたって、自分のこと、ホムンクルスって言ってたわよね。その、なんとかっていう力以外はきかないって」
 ルイズは慎重に、己の内が見透かされぬように言葉を選んで問いかけた。
「ムーン、そうとも。ホムンクルスは錬金術によって生み出された人間を超越する力。
 同じ錬金術から生み出された、武装錬金でしか害することはできないね」
 ムーンフェイスの気まぐれなリップサービスか、核鉄からなる武装錬金の概念、そして己の使う"遍在"も自身の武装錬金であるというところまで聞いて、ルイズは納得したかのように頷いて一歩下がった。
「武装錬金、武装錬金ね」
 何度も何度も口の中で反芻する。手紙はまだ胸の中だ。失敗も考慮し、真にアンリエッタ王女、トリステイン王国、そしてハルケギニアを憂慮するならば、これは誰かに預けておくべきだったろう。
 だが、己の死後にまで気が回せるほどには、ルイズは強くない。
 ルイズは思った。
 博打は嫌いじゃない。彼女は本当になんでもないことのように、ふとムーンフェイスを指し示すように杖を向けた。
「ムーンフェイス」
 二人の距離は、ルイズの次の魔法にはとても十分とは言えないが、次の次の魔法には十分だった。
「何かな?」
「"ファイヤーボール"」
 部屋の家具を食い尽くして余りある爆炎がムーンフェイスを包む。ルイズは煙に包まれた彼の安否を確認することなく、胸元からキュルケに渡された小瓶を取り出した。そして足元に叩きつけた。
「ムゥッ?再生が、遅い……?」
 煙の中からムーンフェイスの声が聞こえる。人食いの声が聞こえる。
 一瞬でも早く次の魔法を唱えるべきだ、と合理的なルイズの心の内は言っていたが、次に行う行為はルイズの信奉するところが神聖と定めたものに唾棄する行為でもある。
 ルイズは心を決めるために、その場に仁王立ちになって大喝した。
「わたくしっ!ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは!
 蛮勇を誇りません。誇り高きヴァリエール公爵家の三女なのです。そう、貴族なのです。」
 煙が喉に挿し込んで息が続かない。ルイズは涙目になった。だが、これは必要なことなのだ。
「その杖は貴ぶべき王家のために、誇るべき矜持のために。そして守るべき臣民のために!」
 生憎とこの私、民に向ける杖も、同郷の貴族に向ける杖も持ち合わせておりません。
 ルイズは涙を流しながらも笑った。
「ルイズ?何を」
「ムーンフェイス、実は私たちって、契約の儀を結んでないのよ。だから、貴方は私の使い魔じゃないし、私は貴方の主人じゃないの。
 今まで騙していてごめんなさい。今からもう、どこでも好きな所に行って良いわ」
 だから、私のこと、殺してくれたって構わない。
 そう一言置いてから、ルイズは呪文を唱え出した。
 何回も、何回も何回も練習した魔法だ。決して己の期待に答えることのなかった魔法。
 だが、きっと成功するだろう。ルイズは思った。
 足元で割れた小瓶から猛烈な勢いで魔力が流れ出し、ルイズの自室を満たしていた。
 トリステイン魔法学院が一年間に溜め込む魔力の、丁度九十分の一の魔力で満たしていた。
 貴族ならば、人民の心を脅かす何かを、吹き飛ばす決断が必要だ。

「宇宙の果てのどこかにいる私の使い魔よ。
 神聖で美しく、そして強力な――武装錬金よ。
 私は心より求め、訴えるわ!」
 ルイズは杖を高々と上げて言った。我が導きに答えよ。
 そして再び起こった爆煙が収まる。
 煤汚れた彼女の手には、LXXの刻印が刻まれた、誰かの心臓が握られていた。


/


 ルイズの魔法はとても良く轟き、そしてとても良く閃く。
 偶々ルイズの部屋が覗ける位置にいた、窓を割って吹き出る煙を確認した教師達は、皆一様に突然湧き出た魔力とそれを消化した魔法に首を傾げた。ただし、全員がそうした訳ではなかった。
 オールド・オスマンがルイズの部屋を自室で映していた。
「ミス・ヴァリエールの部屋から……これは、ふむ。召喚の魔法かの」
 不思議な、実に不思議なことだった。二年生であるその爆発の起こった部屋の主は、進級の際に己が使い魔を召喚し終えている筈であり、こうして二度目の魔法が行使されることはないはずだったからだ。
 特に彼女の使い魔は、長い時を生きたオスマンにとってもあまり馴染みのない強い存在感(気配、臭い)を放っており、それは今も存続している。オスマンは遠見の鏡を今一度見遣った。
「ふむ、ふむ。これは……ふむ」
 オスマンは朝食に向かうかのように立ち上がった。そして己の杖を持ち、使い魔のモートソグニルに目配せをした。

 もう後戻りはできないわよ、ちっぽけなルイズ。
 ルイズは心の中で自分にそう吐いた。後戻りは出来ないのだ。ならば雑念を捨てて、今すべきこと一つに集中するのが良い。
 解れた煙の間から、薄気味の悪い笑いを貼り付けた三日月が覗いていた。確保した距離のなんと心細いことか。
「ムーンフェイス……、怒ってる?」
 ああ、なんてつまらない質問をしているのだ。ルイズはすぐさま自責した。たった今から敵となった彼をハルケギニアから弾き出すためには、こんな質問に時間を使うべきでは断じてないはずなのだ。
 不愉快を隠さずに、しかしどこか愉快そうなムーンフェイスが無言のまま月牙(彼の武装錬金)を取り出したのを認めて、ルイズは本能的に構えていたか細い杖を仕舞った。
 そして半身に構え、もう一方の手で握っていた核鉄を前に見せる。あのはじまりの日に左手に刻まれた、趣味の悪い刻印が直接教えてくれていた。
「月牙の武装錬金」
 どこからともなくムーンフェイスが武装錬金を取り出す。ルイズもそれに倣い、核鉄を取り出す。
「……お願い、武装錬金」
 武装錬金の委細が解るのは左手の、行き場を失って主に宿ってしまったルーンの力だ。そのルーンは宿主の燃え上がる心に呼応して、全身から伸びる武器を、文字通り練達した手足のように使いこなす力を与える。
 眩い光を放ち、浮かび上がり、そして新たに武器の形を取った核鉄は槍の形をしていた。
 細い、細い槍だ。ほんの気持ちばかりの鋭い穂先と、柄舌(穂の元)に大きな飾り布がついているだけの簡素なものだった。これもまた、燃え上がる心に呼応して力を発揮するのだ。
 たった今喚び出したばかりの槍を使いこなす力など、ルイズにはない。自然と左手のルーンに頼らなければならないので、心(概念的なもの)を食い潰す二つはあまり相性が良いとは言えない。
 しかし、どちらも必要なものなのだ。悪魔は右に左に増え続けていた。いずれ部屋を埋め尽くすだろう。
 ルイズは吼えた。
「貫け……。私の、武装錬金!!」
 槍を持った人間の腕は長くなる。
 ルイズはルーンからそう教わった。確かに長くなるのだ。最初に突き出した穂先は、真っ先に中央にいたムーンフェイスの喉仏を貫いた。
 密集した声帯を中心から裂き、二つの管を半分だけ切り裂いて貫通する。何本もの血管の役割を殺し、半壊した管にそれらが注ぎ込む前に背骨の小さな一つと共に首の裏を突き破った。
 その哀れな一人目がにやついた笑いを保ったままに爆散するのを確認し、ルイズはすぐさま槍を引き抜く。続けて三人目に槍を向ける途中で、二人目の頭蓋骨を打ち砕いた。
 四人目、五人目。槍を引き戻す速度が数を重ねるごとに速くなっていく。ルイズは呼吸を止めて、ただひたすらにその長い腕を酷使した。十人目、十一人目。
 そして二十九人目が終わり、無酸素運動が限界に達したルイズが大きく息を吐く。続けて吸った。
 ほんの微かな間だ。しかし十分でもあった。
「一人でも残ればそこから再び――、御覧の通り」
 再び同じ数に己を補充したムーンフェイスが、変わらぬ嘲笑をもって見下している。
 解っている。おまえの武装錬金の能力は知っている。ルイズは口の中でいくつかの悪態をついた。けれども声にする息が勿体無かった。今は僅かに届かなかったが、次は再生(増殖)する間も与えないと心に決める。
 その声に出さぬ憤慨を込めるかのように、ルイズは強く強く床を蹴った。だが、乱雑に、再び一人目の眼球をくり貫いた彼女に向かって、四方から声がかかる。
「ムッ。ムゥーン!」「ルイズ、君は強い!」「素晴らしい!」
「さっき君が突き飛ばした29人は」「そうだな」
「ギーシュという魔法使いの全エネルギーに匹敵する!」
 ふざけたことを、とルイズは奥歯を擦り合わせて削った。それはホムンクルスに、まるまる人間一人分のエネルギーを一瞬で使わせた、という純粋な賛美だった。
 人間一人、確かに膨大なものだ。ギーシュはドッドとは言え名門の貴族の子息だった。ルイズの価値観で言わせて貰えるなら、それはとても素晴らしいものだ。
 だが、ムーンフェイスの価値観で言えば、一食分の食事でしかないのだ。
「それのっ……、どこがっ、……素晴らしいって言うのよぉ!」
 外側から抉りこむようにルイズの槍が撓る。二十人目の肩口を貫通し、二十一人目の心臓を肋骨ごと粉砕し、二十二人目の燕尾服にかすり傷をつけた。ルイズは肩で息をする。酸素が足りない。酸素と、体力が足りない。
 そして恐らく、実力が足りない。この数瞬で嫌というほど思い知らされていた。
「ルイズ、私はこの月牙の武装錬金に」「私が君に召喚されたときに」
「新しい名前を、つけることにしたんだ」「月が一つでサーティ、なら二つなら?」
「サテライト60、ってね」
「ナイスなセンスだと思わないかい」
 先ほどまでの倍の数のムーンフェイスが、戦いのうちにすっかり壁の吹き飛んでしまったいくつかの部屋と廊下を占有してそこに立っている。
 ああ、その勝ち誇った顔が腹立たしい!
 ルイズは激昂して再び駆け出しそうになる自分を抑え付けた。このまま同じことを繰り返しては、いつか腕を上げる力の費えた自分は終わるだろう。それは、駄目だ。ぎゅっと強く己の武装錬金を握る。
 そのとき、窓の外の雨音と、騒々しい自分の呼吸音の中から、ルイズの耳が一つの音を捉えた。


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 この気持ちの名前をルイズはよく知っていた。絶望という。
 ホムンクルスは通常の武器では害することができない。武装錬金という唯一の例外を許すのみで、それ以外の力は無慈悲に撥ね退けてしまう。
 だからこそ、キュルケの残してくれた膨大な魔力(豪商ツェルプストーだからこそ用意できた魔法の小瓶)を使って喚んだのに、ムーンフェイスを害するには足りないというのだ。
 選択肢を誤ったか、とも思った。ホムンクルスの特性が再生(これが擬似的に錬金の力以外への無敵耐性となる)で、ムーンフェイス特有の武装錬金が増殖だった。深く考えてみれば、再生を上回る速度で攻撃を繰り返せば、再生は対処できるように思う。
 ルイズは強く唇を噛んだ。
 増殖は、どうすればいい。ルイズの使い魔(槍の武装錬金)はホムンクルスの再生には対処できている。だが、そのたった一本だけの細い穂先は増殖に対して無力だ。面の攻撃が欲しい。魔法だろうか。このホムンクルスに魔法は効くのか。
 細腕の魔法使いは、対面するホムンクルスの異常な膂力に太刀打ちできるのだろうか。
 自分の落ち度が目の前に丁寧に提示されていて、ルイズは悪態も吐けずにただ歯軋りをしていた。このままでは、ムーンフェイスは我が儘に人を食らうだろう。それだけは阻止しなくてはいけない。
 なにか、なにか手はないのか。
 歯軋りを止め、頭だけをひたすら働かせるため、冷たい表情でムーンフェイスを見据えたルイズの耳に足音が聞こえた。

「ほっほっほ、若いモン同士で戯れとるところ悪いんじゃが、ちと私も混ぜてもらえんかい」
「……オールド・オスマン?」
 飄々と二人(あるいは六十一人)に声をかけてきたのは、オールド・オスマンだった。間抜けな表情を晒して誰何したルイズに向かって、いかにも、と頷いて彼女の傍に立つ。
 そして大勢のムーンフェイス達と向き合った。
「ムーン、若い者」「そう呼ばれるのは嫌いじゃないけれど」
「私はもう200年以上生きている」
「あんまり」「適切な表現じゃないね」
 四方からオスマンに声がかかる。そのいくつもの口から伝えられる言葉に、僅かばかり眉を動かして不快を表すと、蓄えたひげの中から矍鑠と言った。
「私ぁ300歳じゃよ、若造」
 ルイズは、いつの間にかステージから降ろされてしまった女優のように間抜けな顔を保ったままに、何度も視線をオスマンとムーンフェイスで往復させた。
「それは失礼」「これは社交辞令なんかじゃなく」
「純粋な賞賛として受け取って欲しいんだけど」
「とても300歳には見えなかったよ」
 それはそうだ。ルイズは思わず頷いた。百歳には見えても、三百歳に見える人間など存在しまい。
 気づけば歯軋りは止み、思わずくすりと笑っていた。
「あはは、あー……、もう、おかしい」
 ルイズはしっかりとした目でオスマンを見つめた。
「オールド・オスマン。実はそこのムーンフェイス、少々人食いの嗜好がありまして」
「……ほぅ。それは大層もないことじゃ。実は私もそんな気がしていてのう」
 二人のやり取りが続く中、ムーンフェイスは退屈な素振りも見せずに佇んでいる。そこに一掴みほどの余裕と、それ以外のほとんどを占める好奇心を見て取ったルイズは、種族としての性質(食人嗜好)がなければきっと良い主人と使い魔の関係を築けただろうな、と思った。
「実は、さっきからこっそり二人の喧嘩を覗いておってのぅ。ミスタ・ムーンフェイスが相手だと誰しも千日手じゃな」
「ええ、全く……」
 万策尽きた、と頭を振るルイズに向かって、オスマンはやはり飄々と問いかけた。
「ところでミス・ヴァリエール、私が何故アカデミーから干され、王室から毛嫌いされて、こんな美人の秘書も気づいたらいなくなっとるような学院で学院長をやっとるか知っているかね?」
「それは……なぜ、他の場所に居場所がないのかということでしょうか?」
「うむ、そうじゃ。ところで私の二つ名は知ってるかの」
 ルイズは一拍躊躇ってから答えた。
「ドブ鼠のオスマン、ですか」
「うむ、うむ。そうじゃ」
 ルイズも含めた、この二つ名を知る生徒(ルイズの知識の中にはなかったが、教師も含まれる)は、これを蔑称だと思っていたのだが、どうもオスマンの様子を見ると違うらしい。
 いつの間にか、激しい運動で上がった息が整っていた。窓の外は相変わらず激しい雨音で満たされているようだったが、呼吸音が収まったせいか、ルイズの耳はいくつかの音を捉えていた。
「始祖ブリミルはの」
 オールド・オスマンが杖を掲げた。ムーンフェイスの半数が彼を注視する。武装錬金の牙が彼を狙っている。
「四匹の使い魔を連れていたとされておる」
 その中の一匹が、神の笛、ヴィンダールヴといってな。オスマンは続けた。
「ああ、私がアカデミーを干された理由じゃが――
 ルイズの耳はたくさんの音を捉えていた。
「そのヴィンダールヴを、不敬にもドブ鼠で再現したからかの」
 気づけば、室内はありとあらゆる鼠によって埋め尽くされていた。オスマンから彼の使い魔モートソグニルに伸びた魔力が、さらに全ての鼠へと伸びている。一匹一匹の、老練な魔力を灯した動物たちが、かちかちと歯を鳴らす様にルイズは慄いた。

 慌ててオスマンを貫くために、一歩踏み出した一人目のムーンフェイスの足が一瞬で消し飛んだ。消し飛んだのではなく、近くにいた鼠数十匹の腹に均等に収まったのだ、とルイズはなんとか理解していたが、自分の足元ですら鼠が這っている状況ではあまり考えたくなかった。
 部屋の中で鼠たちが作る音は、完全に窓の外の雨音を追い出してしまっている。ルイズは騒音に思わず耳を塞ぎそうになる。(ただし、未だ目の前には大勢のムーンフェイスが居たので、顔を顰めるに留めた)
「戦いは数、これもひとつの側面では真理じゃな」
 唯一人、このドブの生物に占有されてしまった室内で我が部屋のように振舞っている賢人は、なんでもないことのように、些かつまらなそうに、君もそう思うからこその分身じゃろう、と言った。
「だがの、ほれ。同じ数の対決になれば、より多い方が勝つのは道理」
 ムーンフェイスが瞬く間にその数を減らしていく。その中で彼が失笑するのを認めて、ルイズはなんとなく、人間以外との体力勝負が始めてだったので、鼠とホムンクルス、どちらが勝るのかと一瞬悩んでしまったのだろうか、と思った。
 撤退を決心したのか、ムーンフェイスの口元が僅かに窄まった。
「ム、ムゥーン!
 この勝負、私に不利だな。ムゥッ」
 一瞬で増殖し、そして一瞬で消え去るムーンフェイス達の中で、何度目かの一瞬の間に現れた、一番窓に近かった一人がガラスを突き割った。そして、二番目に近かった一人が脚力で塔の外に飛び出す。
 室内に残ったムーンフェイス全員から最後の言葉が聞こえた。
「今日のところは」「これで失礼する!」
 そしてそのまま掻き消える。
 ルイズは振り止まない雨の中から、一匹の竜が羽音を立てて学院から飛び去っていくのを見た。
 騒がしい鼠の鳴き声に混ざる、オスマンの、あの娘は簒奪を選んだのかの、という呟きが聞こえた。