足元に何羽もの鳩が群がり、私が撒いたパンのくずを啄ばんでいる。彼らの黒く小さい瞳は感情を映すことをしないが、餌がなくなると気のない素振りで離れ、また撒くと慕うように近寄ってくる。単純だ。しかし愛らしい。
平日の公園は存外、人気が多い。犬を連れた婦人も多いし、余所行きの服で寄り添う男女も多い。繁華街が近いからという訳でもないが、スーツ姿のサラリーマンもそれなりに見かける。私の他に鳩の餌を撒く者が居ないのは、鳩の数に限りがあるからか。私はパンをちぎる手を止めた。楽しかった。ならばこの楽しさを、一人で独占してしまうのは良くない。私は、隣に座らせていたウイスキーの瓶を持ち上げると、僅かばかり口に含む。人は多いが、ベンチの利用者はそれほどでもない。私はまた、自分の隣に酒瓶を座らせると、空を見上げた。鳩たちはもう、撒いた分の餌を食べつくし離れてしまった。誰かに配慮することもなく、足を組んだ。
「昼間からお姉さん、パンは鳩にやって自分はお酒ですか?」
ふと、少女が声をかけてきた。顎の下で揃えた黒髪が快活で愛くるしい。私の隣の、酒瓶のための席を譲ってやる。少女は迷いのない動作で、空けられた席に座り、そして私の返事を催促するようにこちらを向いた。
「とても楽しそうでしょう」私は得意げに言った。
「はい?」
「朝からやっているんですが、これが楽しくて仕方がない」
事実、楽しくて仕方がない。少女は何度か瞬きをした。
「老人か、世捨て人みたいです」不思議そうに言った。その顔に嫌悪感はない。
「そうなんです。老人と世捨て人の楽しみでね」
その通りだった。ぴたりと言い当てた少女の慧眼に嬉しくなった。
私には老後の楽しみがない。もっと言えば老後がない。三十歳までには死ぬ、らしい。よく解らない。意識する度に心臓が痒くなるから、普段はあまり意識しない。
「これでも働いてるんですよ。傾きかけた会社の受付嬢ですが。今日は強いて言えば、老人ごっこと、世捨て人ごっこかな」
「あれ。本当に世捨て人なのかと思ってました。ごめんなさい」少女は笑った。
「俗世なんて、捨てようと思っても、なかなか捨てられないものでしょ」
私は少女につられて笑った。幻獣ハンターくらいしか知らないような、未開の地は少なくない。だが、全てを捨ててその世界に足を踏み入れる、思い切りの良さが私にはない。
私は酒を煽った。
「お姉さん、使えますよね」唐突に彼女は話を変えた。
「うん? ええ、そうだね。君もそうか」
少女の纏は美しい。年頃の少女には似つかわしくない、無駄のない纏だ。
「嗜み程度に。こいつは、ハンターの楽しみだろう」
「ライセンス、持ってるんですか?」
「持ってはいないよ。友人に教わったんだ」六年前に死んだが、気の良いやつだった。
「そうなんですか。ところで、手軽で本格的な世捨て人ごっこがあるんですけど」
私は酒瓶のキャップを閉め、緩慢な動作で少女を見た。
「それは、どんな?」
「ゲームです。ゲームの中に遊びに行くんですよ」
私は立ち上がった。少女の視線が私を追いかけるのを感じた。
「そろそろ帰るよ。明日は仕事なんだ」
「はい、頑張ってくださいね」
「ありがとう。私はヘラ」
「ご丁寧にどうも。エアル、十七歳です」
空の瓶を尻ポケットに入れる。エアルに軽く手を振って、私は公園を後にした。
翌日、私はまた酒瓶を傾けていた。
「ヘラさん、また会いましたね?」
「そうですね。こんにちは」
私は苦笑した。昨日の今日だった。エアルの接近を感じ取り、鳩たちが僅かな餌を残して飛び去ってゆく。
「世捨て人ごっこですか?」彼女は昨日と同じように笑った。
「ええ。仕事、首になってしまって」
退職金もほんの僅か、と私は指で小さく示してみせる。
「あ、そうだ。今ならどうでしょう」
「なんです?」
それからエアルは、悪戯っぽく笑って言った。
「ゲーム、しませんか?」
「やりましょう」
Re:Re-Birth
[GREED ISLAND]
「お母さーん、ただいまー」
日もすっかり昇り、昼食時まで幾分か残すのみとなっていた。エアルに手を引かれ、私は彼女の家に上がった。三人家族には些か大きすぎる家だが、屋内の隅々まで手入れが行き届いている。
「お帰りなさい。あら、本当に探してきたのねぇ」
「初めまして、ヘラです。お邪魔します」
「ふふ、ようこそ。ケイ=ホーライです。娘がどうもすみません」
そう言って微笑んだケイ女史に私は、この人はスーツ姿が似合うだろうな、という場違いな感想を抱いた。一挙一動にむらが無い。しかし、ひまわり柄のエプロンも不思議と似合っていた。
エアルの纏が、手足を縮こまらせた亀に似た印象を与えるのに対し、彼女の纏はたおやかだ。私は出来る事なら、私自身の念が形になってしまう前に彼女と会い、そして教えを請いたかったな。そう思った。
「娘さんに誘われて。遊びにきました」
「実は私の父が、孫の誕生日に、なんて言ってハンター専用のゲームを持ってきまして。あの子たちは学校が夏休みだからって、一日中ゲームばっかり」
肩をすくめる仕草も様になっている。
「いい年した大人が夏休みでもないのにゲームで遊びに来るなんて、恥ずかしい限り」私は頭を掻いた。
エアルが、ケイ女史の困り顔を見てよくやったと頷く。私はケイ女史に軽く頭を下げ、エアルを促す。エアルは軽快な足取りで、リビングの中央にある階段を駆けていく。
「あ、妹はもうやってるんです。ゲームの中に」
「ゲームの中?」
「そう。中に入ってやるんです」エアルはそう言って歯を見せた。
そういえば、世捨て人ごっこに誘われて来たのだった。
「やり方は簡単です。ジョイステーションに手を添えて、錬をするだけ」
メモリーカードを二人分挿し込んで手を添え錬をしたエアルに倣い、私は錬をした。
簡単なチュートリアルを受け、階段を下りる。グリードアイランド(G・I)はカードを集めることを目的としたゲームのようだ。簡略によろしく、と言ったら"ブック"と"ゲイン"という魔法だけ教えてくれた。それ以外はカードを入手しろ、ゲームの中で確かめろ、ということか。
G・Iの始まりの場所は、見渡す限りの草原だった。
「待っててくれたんですね」
階段を降りきると、壁に背を預けたエアルの姿があった。ラフな格好の彼女はこの場所に溶け込んでいる。一度意識してしまうと、私のワンピースは酷く場違いだ。
「はい。それと、ほら」
エアルの後ろ、柱の影から、同じ顔がもう一人現れた。
「初めまして、プティです。よろしく」
「ヘラです。よろしく」
「はい、よろしく。ところでいきなりですけど、敬語無しにしませんか?」
彼女の髪はパーマがかけられていて、栗色の髪の艶は丁寧な手入れを連想させた。服もまた私と同程度には場違いだ。しかし外見と釣り合わず、中身は積極的らしい。私は笑って歓迎した。
「ああ、これでいいかな。粗野な喋りで悪いね」
「いーえ、ありがとう。ほら、姉さんも」
「そうだね。ヘラ、改めてよろしく」
目元を軽く掻いて、エアルは私に右手を差し出した。
「お前、可愛いなぁ」
私は手を握り返さず、両腕で抱え込んだ。エアルの仕草にどこかいじらしさを覚えたのだ。
「あ、だめ、だめよ。姉さんは私専用」
そう言って割り込むプティにエアルを返してやる。じゃれる二人を横目に、私はチュートリアルで貰った指輪を掲げた。
「"ブック" こうかな?」
「あ、そうそう。そんな感じ」プティと手足を絡めながら、エアルが言う。
僅かな煙とともに厚く大きい本が手の中に現れた。本の体裁を取ってはいるが、高級なカードフォルダーそのもの。スロットには番号が降られていて、01番から99番まで集めるとゲームクリアだそうだ。道は遠い。
「番号のないポケットは?」
「そこはフリースロットよ。500番台とか、1000番台のカードもあるんだから。ところでヘラさんチュートリアルすっ飛ばしたでしょ」
「なんのことかな。"ブック"」
プティの言葉に笑って、本を仕舞う。二人のじゃれ合いも一段落ついたらしい。
「最初はどこに? 始まりの場所が街じゃないっていうのも、なんだか斬新だ」
「確かにね。このゲームは、最初の街も選べるってことじゃないかな」
なるほど。
「私は左がいい」
「ヘラさんって即断だね。でもごめんなさい。私が右の街でバイトしてるの。今日は辞表出しにいかなきゃ」
少し自由度が高すぎやしないか。
「花屋さん? ケーキ屋さん? それともペットショップ?」
「プティは花屋さん。よく解ったね」
「解りやすいよ」私は苦笑して応えた。
「ま、行こうか。プティ、ヘラ、歩いていこうと思うんだけど」
「わかったわ」
「構わない。道すがら色々教えてくれると嬉しいね」
三人のパーティーで、リーダーは自然とエアルだった。
「よし、じゃあ行くよー。目的地は懸賞の街、アントキバです」
二人が足に念を集中させるのを見て、私も倣った。歩くと呼ぶには些か早いペースで、私たちはアントキバへ向かった。
「嘘!? NPCじゃなかったのか!」
「モーションかけときゃよかった……」
「俺てっきり、『姉さんが迎えにくるから』ってイベントのフラグだと」
アントキバを三人で歩くうち、そういった声がいくつも聞こえてきた。思わず噴き出してしまう。涼しげな、猫のような顔で知らん振りを決め込んでいたプティだったが、私とエアルの視線に少しばかり表情を崩した。まさに小悪魔だ。
この街の事はプティの方が詳しいようで、エアルも彼女に先頭を譲っている。ふわふわと前を揺れるウェーブの髪に、エアルと顔を合わせて口をへの字に結ぶ。どちらも愚直なストレートなのだ。こうして手入れの行き届いた髪を延々と見せられるのは、何がとは言わないが負けているようで悔しかった。
スパゲティの刑に処す。
「ひゃっ」プティが声を上げた。
「参ったと言え」
「あ、私もやるやる」
「ちょっ、何、やめてくすぐったいよ。姉さんも!」
「私は変化形の能力者で、念に自動スパゲッティフォークの性質を持たせることが出来るのさ……」
「ふざけんな!」プティの猫が逃げた。
完璧にセットされていた髪が、あられもない姿を晒す。始めに往来の視線に気づいたエアルに促され、私たちは小さくなってその場を立ち去った。
これは根拠の無い私の推測だが、恐らくこの街でのプティの株は地に落ちた。
街からは、現実の往来との差異が余り感じられない。街路樹が植えられ、店は活気付いている。そこかしこに沢山の人が居るが、多くはNPCのようだ。二人が言うには、プレイヤーは指輪をつけているからそこに注意すれば判別はつくそうだ。ただし、手袋などで指輪ごと覆われてしまえば解らないらしい。
「リアルだな。壁や木の画像が二マスとってるせいで進めないとか、なさそうだ」
「ないわよそんなの。しかも例えが解りづらいし」
「イベントが無い建物の入り口に透明な壁があったりも?」
「それもないよ」
「……君らは仲が良いね」田舎者が馬鹿を言った気分になって、私は負け惜しみをした。
二人はにこりと笑う。目的地についたようで、プティが足を止めた。
「ここよ、この中」
「おじさん、チームの組み方ってどうするれば良いんですか?」
「チーム? 一人の冒険はとても危険だ。良い判断だと俺は思うね」
大きな通りの道具屋に入った。商品がカードの状態で収納されたショーケースを覗き込もうとする私の袖を引き、プティは店主にそう質問してみせた。
「別にどこに申請するわけでもないんだ。ぱっと見てチームらしかったら、それで良いと俺は思うね」
行動を共にしていれば、チームとして扱われるということだろうか。細部までリアルなゲームだ。
「一つアドバイスをやろう。何度も言うが街の外は危険だ。頭数はそろえた方が良い。だが、沢山いれば良いってもんでもない。大体三人が丁度良いんじゃないかと俺は思うね」
延々と動き続けていたNPCの口が止まる。引き継ぐように今度はエアルが喋りだす。
「こういうこと。プレイヤーの人に聞いた感じでも、三人じゃないと攻略できないイベントも結構あるみたいでさ。どうせなら最初から三人でやろうと思って」
「なるほどね」
「最初は呪文カードを少し買って、他のプレイヤーとの遭遇? 戦闘も少し視野に入れながらイベントに取り掛かろうと思う」
「指針がはっきりしてるなら助かるよ」
私は頷いた。悪くないリーダーだ。
「私のお給料は全部で30,000Jとちょっと。姉さんは懸賞でいくら稼いだんだっけ?」
「少し使ったから25,000Jかな。ヘラ、今からマサドラに行くよ。徹夜で突貫ね」
「マサドラ?」
「魔法都市マサドラ。呪文カードはそこでしか買えないのよ」
なるほど。
「一パック10,000Jで三枚入り。中身はランダム」
「シビアだね」
「そうだね。プティ、ちょっと見せてあげてよ」
プティはバインダーを出すと、私に開いてみせた。フリーポケットのページだ。
二パックだけ買ったらしく、投石が二枚、透視が一枚、暗幕が一枚入っている。
「プティ」
「ごめんなさい」
中身を覗いたエアルが半眼で妹を見た。プティはぺろりと舌を出して謝った。
「初心使っちゃったのかぁ。最初の場所にプティが居た時点で気づくべきだったよ」
「姉さん、ごめんなさい。でも過ぎたことは仕方ないわ」
「君が言うなよ」
「まぁ、過ぎたことは仕方ないよね。マサドラ行こう。まず目標は離脱三枚!」
勇み足で歩き出したエアルを追いかけながら、プティと顔を見合わせた。
「その離脱、五パック(十五枚・50,000J)買って三枚も当たるようなカードなの?」
「逆よ。十パック買って一枚も入ってないのが普通なのに。姉さんったら」
プティと笑いあう。姉も妹も、どちらも気さくで付きあい易い。
「おじさん、ぶたの丸焼きって知ってる? おじさんみたいなやつ」
「ぶたの丸焼き? 知らないな」
「じゃあぶたって知ってる? やっぱりおじさんみたいなんだけど」
「ぶた? 知らないな」
「じゃあ……」
「ちょっとプティ、NPCで遊んでないで行くよ」
「置いていくよー」
「あっ、はーい。姉さんもヘラさんも待って!」
私たちの旅は、第一歩から頓挫していた。
アントキバからマサドラまで、道なりにまっすぐ進むと、山賊が出る。暴力で脅しつけるわけではないが、変則的な方法で、情に訴える形で金や物を巻き上げようとするので、出来れば会いたくない。これが2Dグラフィックの相手なら軽く押し通ることもできるが、NPCとは言えこうも現実的な世界ではやり難い。
そういう説明の後に、少し迂回したルートを取る、と言ったリーダーの判断を私とプティは支持した。ちなみにそのときは、迂回ルートの方の説明はなかったことに不安を持たなかった。安直に、片方が駄目ならもう片方は安全だと考えた。そんな馬鹿な話があるものか。
私たちは遭難した。
「定期的に地図を見るとか、そういう努力はなかったっけ」
「暫く見てなかったよ」エアルが苦笑して言った。
「なんだか姉さん、いつになくうっかりね」
「三人目、ヘラさんがすぐに見つかって舞い上がってたのかも」
「はは、そんな風に言われると嬉しいね。でも現実は大変、地図はもう役に立たない」
20,000Jで買ったという島の地図を広げてみても、何も映らない。訪れたところが順次書き加えられていくという、ゲーム的な要素。ただ、紙の上に描かれただけの地図ではないのだ。ゲームの製作者たちが、こういうトラップを用意してくることは予想してかかるべきだ。
「序盤のトラップじゃないわよこんなの……」
「道から逸れた時点で、序盤とかそういうのは当てにならないんだけど」
「あはは、ごめんね」
やはり笑いながらエアルが言う。遭難自体は別段大事ではない。二、三日は凌げる程度の食料は持っていたし、果実生い茂る木々を見るに、自然から調達することも容易だ。ただ、地図だけが映らない。
この条件下なら、簡単に起こり得るものが一つある。
「エアル、プティ。二人とも、現状は把握できてる?」
「はい! ええと、マサドラまでの道がわからない」とはプティ。
「水とご飯には不自由しない場所ではあると思う」これはエアルだ。
「地図上の正確な位置が解らない、そしてこの場所から離れずに自給自足ができる」
そう言い換えてから、一度言葉を区切る。指を二本立てた私を見つめる二人の視線に、教壇にでも立っているような、不思議な気分になった。
「ここ、面倒な事に、盗賊の寝床にうってつけなんだよ」
プレイヤー同士でアイテムを奪い合うのも、多人数同時参加のゲームならではだろう。食料の調達が容易なのは、最初の街の近くに罠を置いた、製作者なりの温情なのかもしれない。だが、悪意も手助けしてしまっていた。
「……悪いプレイヤーとの鉢合わせに警戒しろってことだね」
「わかったわ。注意する」
二人揃って神妙な顔をして頷いてから、プティだけが一歩前に出て手を掲げた。
「あ、それならね? 私は花を中継して偵察ができるの。道の先の様子を探れるわけじゃないから、これからどうするか決めてからじゃないと使いづらいんだけど」
【妖精の腰掛】
右手で触れた草花を一時的に念に覚醒させ、円を行わせる。草花の円から得られた情報は、プティも共有することができる。
覚醒した草花は、円の中の、日光が当たっているもの全てから(円を行う草花自体には日光が当たっていなくても可能)一定量ずつオーラを集めてプティに送る。
覚醒は三日三晩続くが、効果は日が出ている間のみ使用可能。
「塩気のある方に行こう。海沿いに動くのが多分賢い」
地図が再び表示されるようになれば、どうとでもなる。難解なイベント、手強いモンスター。いずれも心が躍る。
「じゃあプティ、この場所に一輪お願い。円の情報はどのくらい離れてもプティに入ってくるの?」
「一輪だけなら二キロまでは大丈夫。でも、ちょっと間隔とってまた、になるのよね」
「そうだね。三輪くらいでローテーションとか、そのくらいで」
私は錬をした。エアル、プティも会話を止めて私に続く。誰かがこちらに向かってくる。かすかに草木の揺れる音がする。
「誰だよ」
ぎゅっと唇を結んでしまった二人に代わって、私は茂みの向こうに問いかける。呼吸を隠し、持久戦も辞さない体勢に入る。だが、すぐさま、そんな私を哂うように声がした。
「おい、お前ら。カードをよこせ」
私は自分に言い聞かせた。想定の範囲内だ。
だが手を打つことが間に合わなかったのも、また事実だった。
周囲に馴染んだ色の服、握られた剣、そして一瞬にして、物理的に澱んだ空気。気配や臭いといった類のものではない。念だろうか。島のスキルか、アイテムかもしれない。眉間から垂れた汗を拭うつもりもなかったが、軽く上げた腕が普段より重かった。まるで動きに一定の制限がかかっているようだ。
「ヘラ、気をつけて。体が重い」後ろからエアルの声がかかる。
私は軽く顎を引いて、相槌を打つ。
「お前ら、見ない顔だな。カードを置いて立ち去るなら何もしない」
盗賊が刃をちらつかせて言う。私は少しだけ姿勢をずらし、盗賊を視界に収めつつエアルに目で窺った。彼女も決めかねているのか、難しい顔のままで、首を縦にも横にも振らない。私たちが垂れる汗も拭えずに構えているのは、相手の剣から私たちを怖々とさせる歪なオーラが湧き上がっているからだ。だが、私の勘や、念で覆った肌は別段反応しない。おそらく、"ゲーム的に良くない"ものだ。恐らくレアアイテム、出来る事なら剣を奪いたい。だが、盗賊は両手にグローブをしている。叩き落とす事も難しいだろう。
「私たち、ゲームを始めたばっかりでほとんどカード持ってないんだけど」
エアルが言う。現状を打破できないことへの焦りか、僅かな時間を稼ぐ以外には何も生まない質問だ。とはいえ、私も相手の出方には注意を払っている。どう来る、どう出る。
「ゲームを始めたばっかり? ほとんどカード持ってない? 俺の知った事か」
私とエアルがほぼ同時に悪態を吐く。ふと盗賊は何を思ったのか、剣の切っ先をぴたりと私に向けた。そして「移動系のスペルはここじゃ使えないぜ」と言った。プティが、カードを一枚取り出していたのだ。そしてそれをバインダーにはめた。
「そいつNPCよ!」
「NPC? 俺の知った事か」
律儀にプティの声に形式ばった返答を返す盗賊を前に、私とエアルは大きく飛び退き距離を取った。退く瞬間に攻撃されることを警戒していたのだが、盗賊はにやにやとした笑いを顔から剥がす事なく、その場から動きもしない。私は更に、今度はゆっくりと、やや大きめな動作で下がる。一歩、二歩。盗賊のNPCは動かない。
次はじりじりと前へ、盗賊へ近づいていく。一歩、二歩。五歩を過ぎたあたりで、盗賊は私に剣を向けた。決まりだ。
「エアル、離れよう。感知範囲がある」
「……なるほど。そういうこと」
私たちが更に十歩離れると、盗賊は背を向けて茂みの中に戻っていった。
「くぅ、騙されたー!」エアルが伸びをして言った。
「本当に。さっきのはプティがお手柄すぎる」私もそれに追従する。
「あは、偶然よ」
最愛の姉と、ついでに一応のパーティーメンバーである私が一方的に遣り込められていることに気分を害したので、投石でもぶつけてやろうとしたらしい。そして、目の前の盗賊を目標に選択できないことに気づいた。
「……困ったな」エアルがぼやく。
「一応聞くけど、何かあった?」
「姉さん、どうしたの?」
不思議そうに尋ねるプティと違って、私にはおおよその見当がついていた。
「プティに呪文カード持たせるのは、やめとこうって言おうと思ったんだけどさ……」
エアルはぽりぽりと頬を掻いて、乾いた笑いを漏らす。私も似たような表情で彼女に相槌を打った。今回はプティの呪文カードに助けられた。もう強く言えない。
ぷぅ、と顔を膨らませたプティがエアルを叩くのを、少し離れた場所で見ながら、私は周囲に意識をやった。茂る木々の間に、僅かな波の満ち干が見つけられた。
「エアル、エアル。地図はどう? 向こうに海が見える」
「えっ? あ、今見る! ちょっとプティ許して!」
「ゆるしたげなーい。腕の代わりにマサドラまで手を繋いでくって約束するなら良いわよ」
妹を御すことに動きをとられつつ、エアルはどうにか地図を取り出した。
「あ、映ってる映ってる。映ってるよ」
「よし、もう大丈夫かな」
エアルの右肩から私、左肩からプティが地図を覗き込む。
「アントキバからここまでと、同じくらいあるね」
「同じくらいあるわ」
「直進の道にそれ以上の近道はないってことか……」
マサドラ、アントキバと現在位置とで正三角形が描けるだろうか。一度エアルがマサドラを尋ねていたのが幸いで、地図の上で真っ直ぐ向かえばマサドラに着くだろう。海岸線に面しているので、方角に迷うこともない。
「しかし、本当に序盤だの何だのと言っていられない場所だね」
「そうかも」
最初の目標、随分高くついたものだ。
「が、がんばろう……」
「ああ」
「はーい」
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