Re-birth 01
pig's house


 私はあなたは小さな子豚であるように感じる。
 私はあなたは逃げ出すことが出来るのだと思う。
 私はあなたが逃げ出すことを望む。
 しかし私は矮小な醜いただの豚であるので逃げ出すことが出来ない。
 そしてあなたもいつか私と同じ、矮小で醜い豚になる。

 然すればやはりあなたも逃げ出すことが出来ない。
 私はあなたが逃げ出すことを望む。



 途切れなく続くきぃきぃという金切り声と、たまにそれを遮る野太い怒鳴り声を子守唄にして私たちは育った。心源流拳法という武門の門下生であった父と母は、婚前はとても仲の良い友人同士であったらしい。
 二人は通っていた道場内では指折り数えられる程の実力者で、一般的にいうところのライバルであったそうだ。毎日お互いに全力でぶつかり合い、汗を流し、酒を飲みに行く。道場の門下仲間の一人の、「いつ結婚するんだ?」の声を聞いてそのまま結婚したそうだ。そして双子の私たちを生んだ。
 どうして父と母の仲がこうまで険悪なのかは知らない。物心ついたときにはすでに耳が二人の喧嘩に慣れていたのだから、私たちが生まれたころからずっと喧嘩していたような気もする。母のお腹の中にいるころから喧嘩していたような気さえするのだから、不思議なものだ。
 そしてなるべくしてというか、なんというか。私と妹の祝うべき六歳の誕生日を迎える三日前に、二人は離婚した。窓を打つような強い雨の中で、慣れ親しんだ狭いアパートを出たことを覚えている。足早に去っていく父を必死に追いかけながら、何度も振り返った。母に強引に腕を引かれ遠ざかっていく妹が、この強い雨で風邪をひいてしまわないか心配だった。



 婚前実際どうだっのかさえ知りたくないが、今現在の私の父は私の母の事が嫌いで、私の妹の事が嫌いで、私の事が嫌いだった。父は生を享けてからこの時まで只管に拳のみで生きてきたらしく、自らの意にそぐわない事は全てその拳で叩いて曲げてきたと言う。アルコールで脳がごっそり抉れてしまったのではないか、とでも言いたくなる様を晒したときは必ずそうがなるのだからきっと本人はそうして生きてきたのだろう。それが父の矜持であるらしかった。娘に自慢する類の事ではない。辛うじて学校に通わせてもらっていた私は、それが道徳の教科書で言うところの"心無い人間"である事を堅実に理解していたが、暴力の恐怖という物が眼前に常に重々しく鎮座していたので、何も言えなかった。そして私は良く父に殴られた。
 毎日所々ささくれ立った畳の上で、細く、黄土色をした脆弱な腕で以て同じく不健康に折りたたんだ足を抱え、息を殺して登校時間が来るのを待つ。父がしばしば、私以外の何かに憤慨し口気を荒くしたとき等に何か部屋の中の物を強く打ち付けるのは、常に父が座った位置から見て左前の隅と決まっていたので、私は毎日、それとは真逆の隅を選んで座っていた。
 きっと私の不幸は、生まれたときからこのような環境で生きてきたにも関わらず、一般の家庭という物がどれ程素晴らしい物なのだろうか、とクラスメイトの話を聞きながら夢想することを覚えてしまったこと。
 それと、どれだけ小さく惨めに身を狭めていても、隣に妹が座っていたときの形容し難い安堵感を知ってしまっていたことだった。



 十四歳になった。妹もきっとどこかで自分の十四歳の誕生日を祝っている筈だ。今日もふらふらと外に出かけて行った父は、自分の為のビールの缶を三つだけ持って先程帰ってきた。こんな人間に祝ってもらっても嬉しくないが、知らぬ顔をされるのは酷く不快だった。父がこんなだから、きっと母もこんなで、妹もやはり一人で祝っているに違いない。私はそう考えて、去年と同じように小声で自分の誕生日と併せて妹のそれも祝った。
 ふと、岩肌と見紛うかという程に乾燥しきっていた唇にたらりと血が垂れたのを感じて、私は舌先でそれを舐め取る。幼少の頃から父親に殴られ続けていたせいで、血の、鉄塊にぴたりと頬を添えて舌で舐め付けた様な味には慣れていたが、今日このときだけは少々趣向が異なっていた。
 常日頃感じていた、つるりと唇を滑って口の中へと入り込んでくる味の悪い水に似た不快感と、胃を収縮させる臭い。それらが感じられず、唇の上にぷくりと乗って震える小さな滴は敢えて表現するならまろやかで、幾らでも口に含めると思ってしまえる程に美味だ。
 ここまで言って何だけれど、勿論の事血は血である。差異は先ずない。あるとすれば、舐めた瞬間の私の気分で少々左右されるくらいだろうか。
 私は今、非常に爽快だ。

 私の足先で豪快に倒れ、きっかり畳二枚を真っ赤に染色した父、もっと詳しく言うならば生前父だった遺体を、私が殺した際に口元まで飛んできた血は、この上なく美味だった。



pig's house



「名前は?」
「エアル。エアル=ホーライ」
「歳はいくつ?」
「昨日で14歳です」
 尋問室。事情聴取室とプレートが打ってあったが、実質そのような物だろう。いや、言葉の意味に然程差異はないのだろうか。ただ、尋問、という言葉では此処に連れて来られる未成年が兢兢としてしまうという配慮だろうか。配慮なのかもしれないし、体裁の問題なのかもしれない。
「動機は?」
「このままだと殺されると思った」
「……何か、その、君のお父さんは君に酷いことを?」
 私にも頭が有り、こう言えば多少の同情はひける事を知っていた。
 私はすっと立ち上がる。尋問官の人の後ろに立っていた屈強な男の人と、唯一の出入り口の横に立っていた男の人がちらりとこちらを見た。気にせずに、ここに入る際に貰った味気のない服、上着の裾を捲り上げる。
 私の腹は、本来肌色であるべき場所がちらりちらりとだけ存在していて、後の部位は青と赤が混在してまだらの色を形成している。尋問官の人だけではなく、無表情に勤めていた筈の残りの二人までもが息を呑むのが解った。
「誰か、保護者になってくれそうな人に心当たりは無いかな? 君のお父さんはあー、その……もう居なくなってしまったから」
 心なしか声色が優しくなった。
「小さな頃、両親が離婚したときの事が辛うじて耳に残っていただけなので、自信はないんですけど……、母と妹が、ディケという街に居ると思います」
 辛うじてというのは嘘だ。私は妹が行った街の名を鮮明に覚えている。いつか父から開放されたときに、真っ先に行こうと思っていた。
「お母さんの名前は?」
「ケイです。ケイ=ホーライ」
「ホーライ? 苗字は一緒なのかい?」
「あっ、ごめんなさい。あの、すみません。本当は私がホーライじゃないんですけど、その……」
「ああ、そうか。いや、いいよいいよ。ごめんね」
 父親の身元がはっきりとしている以上、名前を聞いたのは会話を広げる下準備程度の物だったのだろう。虐待を受けていた父親と同じ苗字を名乗りたくなかった、そう捉えた筈だ。完全に間違いという訳ではないが、半分以上は私が単に妹と同じ苗字を名乗りたかっただけだった。
 きっとこの尋問官は違う事を考えているだろうが、私にとっては母も父と同じ、嫌悪の対象なのだ。
「よし、今日はここまでにしよう。今から来るお姉さんが君が今日寝る部屋に案内してくれるから」
 母と、妹に会えるだろうか。会ったのなら私は、父が私にしていたように妹を虐待している母を嬲り殺して、あの愛らしい妹を救い出そう。そして二人で、どこか素敵な場所で仲睦まじく暮らそう。
 私は眠りに就いた。



「エアルちゃん、貴女のお母さんと妹さんが面会に来たわよ」
 私は跳ね起きた。妹が私に会いに来てくれた。妹が、妹に会える。ああ、この日が来るのを何度夢見たか。
 私は申し訳程度に観葉植物が置かれ、幾つかのテーブルと紙コップの自動販売機が一つあるだけの殺風景な面会室に入る。壁は自動販売機が背にしている面一つだけで、残りの三面はガラス張り。私はプラスチックの椅子に浅く腰掛けて、落ち着きなく辺りを見回した。
 ドアの開く音がする。
 先ず、八年経って酷く老けた母が見えた。相変わらず憎い顔をしている。私はすぐさま視線を逸らした。次に、少女が入ってきた。
 私と同じ黒い髪、黒い眼。けれども長い髪はきらきらと光を纏っていて、一歩そのすらりとした足を進める度に揺れて輝く。眼には私とは違う輝きがある。唇はぷっくりと朱色に膨らんで、艶やか。私の胸が、まるで友人に聞いたところの恋であるかのように跳ね上がった。
「プティ! ……あ……プ、ティ?」
 八年越しに再会した私の愛すべき妹、プティは、素敵な髪をして、素敵な眼をして、街を行く素敵な少女のような服を着て、年頃の素敵な少女のような肌をして、化粧をして、とても幸せに八年間暮らしてきた素敵な少女のように私の前に現れた。
「え、……あ、なんで?」
「エアル姉さん、会いたかったよぅ」
 いつの間にか私の前に妹が、妹の隣に母が座っている。妹は泣いてしまっている。勿論の事、嬉し涙だろう。きっと私も妹を前にしたら泣く。そう思っていた。けれど、止まったように涙は出ない。
 妹はついに声を上げだした。涙でくしゃくしゃになってしまっているけれど、素敵な、本当に素敵な笑顔だ。まさに私が羨望して止まない、極々普通の家庭で素敵に育った少女の様。
 なぜだろう。
 私は不意に自分が惨めになって、つい、と妹から眼を逸らした。ガラスに私の姿形が映る。
 日々連なってきた栄養不足と、私一人で父が帰ってくる前に急いで、且つ完全にこなさなければなかった家事を小学生の体で行った故なのか腕は痩せ指先は枯れ、頬は削げ唇は荒れている。埃でも被った様なかさかさの髪と、若干充血気味のぎょろりとした眼。八年前の私と妹は、私と妹以外の誰もが区別をつけることの出来ない位にそっくりで、私から見た妹はやはりとても愛らしかったが、その妹と瓜二つの容姿をした自分自身が誇らしくもあった。
 今は一体何だ。私は何? プティと、何が違った?
 必死に鏡から眼を逸らした。すぐさま妹が眼に入って、それからも眼を逸らす。隣には、とても申し訳なさそうな母。
 ああ、この人はきっと、父と居ない場所ではとても普通の素敵な母親で、普通の母親らしく娘に素敵な愛情を注ぎ、普通に娘を素敵に育てる人だったのだ。
 ああ、本当に――

「あなた、殺す」
 え? と妹と母が言った。
「絶対に殺してやる」
 何を言っているの? と妹と母が私を見た。
「絶対に絶対に、殺してやるから!」

 慌てて面会室に雪崩れこんで来た男たちに私は取り押さえられ、そのまま昨日まで居た部屋とは別の棟にある部屋に移された。
 その日から三日後、記憶が定かではないが恐らくは三日後に、やっと冷静になった私は念で拳を強化した後に、ただ苛立ちを持て余しながらも粉々になるまで壁を殴って、院から逃走した。



Re-birth
you'll suffer


 過疎都市の蒙昧とした気風が災いしてか、余りにもあっさりと私は空の下に出た。言葉にしてしまうのであれば、これは脱獄である。それにしたって簡単すぎやしないか、と私の中の誰かが言う事も有るだろう。しかし一度"絶"を使ったのなら、それは拍子抜けするくらいに簡短明瞭であったのだ。



 念、という不思議な能力は、私をして言わしめるなら生活必需品であった。
 どのような切欠で覚えたのかは知らない。出先から帰宅した父の機嫌が普段よりも少々悪く、偶然私にその怒りの矛先が向いた日の事だったように思う。そのような日、私は父の気が済むまで殴られる。私の記憶は常に、私が気絶した瞬間で途切れているが、父の事だから恐らくは、私の意識の有無等関係無しに、己の気が済むまで殴っていたのだろう。そして翌日、私は目が覚めたら不思議な光を身に纏っていた。
 初めのうちは意味も無く光を眺めているだけだった。自分のこれまでの日常とは相容れないものだったから、その程度の使い道しか思いつかなかったのだ。ただ暇があればぼうと光るその光を眺めていた。画期的な発見をしたのは、その日の晩、少ない食材に頭を捻りつつ料理をしていたときの事だ。
 その日、家の決して大きいとは言えない冷蔵庫に残っていた材料は、満足に二人分の食事を賄える量ではなかった。夕飯の量が少ないときには酷い癇癪を起こす父の分を減らす訳にも行かず、私の分は普段の半分くらいになってしまうかな、と溜息をつきながら野菜を刻んでいた。しかし上手い具合に二人でその材料を均等に分けても、空腹を誤魔化せる程の量にはならない。殴られる事を厭うのであれば、自分の分を減らすしかないのだ。なんて考えながら包丁を扱っていたのがいけなかったのか、私の人差し指に、すっと赤い線が入った。切れた。
 幸い雀の涙程度の血が傷口の上に溜まるだけで、血が流れ出したりはしなかった。このくらいの傷であれば大丈夫。ティッシュペーパーで拭き取るだけにしてしまうか、絆創膏を持ってくるか。ただ、絆創膏を使ったのならそれは父の目に留まるだろうし、どれ程些細な変化であれ、何か殴る口実になりはしないかと日々慄いていた私にとってそれは冒険だった。ああ、やはり、ティッシュペーパーにしよう。そう結論を出したとき、長い時間放っておいた傷口から血がたらりと流れ出した。いけない、切ったばかりの野菜に血が付いてしまう。そう心配、今思えば随分と的外れな心配をした時の事。突然朝から体に纏わり付いていた光が、その傷口に集約された。驚いた私は思わず強かに床に腰をぶつけてしまったが、その体勢のままにまじまじと指を見たときには既に、細い切り傷は無くなっていたのだ。
 それから私は、念の光、オーラを傷口に集める事を覚えた。痣にオーラを送れば薄らかにだが痛みが引いたし、小さな裂傷であれば塞ぐ事も出来た。その分、後になってその治療行為が、強化系という自分とは違う人種の類が得意とする念の使い方だと知った時の私の落胆振りは、筆舌に尽くし難いものだったが。
 それから私は、父の居ぬ間に忍びに父の本を漁り、念という概念を覚えた。父と母が離婚してから、父の前、部屋の隅で常に行ってきたそれが"絶"であったとを知り、"練"を覚え(余談だが私は練が大の苦手である)そして出来立ての"発"で十四歳の誕生日に父を殺した。



you'll suffer



 いかにして妹をあの母から引き剥がし、奪い、そして母を殺すか。
 差し当たっての問題はこれだった。片意地になっているのだろう。私の標準に劣るお頭を使ってどう考えを巡らせても、妹が母と一緒であれば幸せというのは明確だった。妹は幸せなのだ。母と二人で平穏に、どう考えても幸せでいた。

 八歳のとき、慣れない水仕事を必死に熟していた私の指先は、ぴり、という涼しげな音と共に裂けた。父はしばしば連絡も無しに夜中を過ぎて帰ってくるので、作っていた夕食が駄目になる事が良くあった。家の中でお湯を使うのは、父親が入浴するときだけと決まっていたので、干乾びて皿にこびり付いてしまったそれを取るために必死に水洗いしていた朝の事だ。パニックに陥ってしまった私は止め処なく流れる血を必死に痛む指で押さえ、台所をそのままに絆創膏を取りに入った。包帯なんて上等な物は家に置いていなかったので、泣きながら同時に裂けた六つの指に絆創膏を巻き、皿洗いを再開しようと台所に立った私は父に殴られた。開け放しだった蛇口と、「水だってタダじゃねぇんだぞ愚図!」という言葉が全てで、私は指の痛みをどうにか忘れながら、頭を垂れて必死に謝った。
 その日の晩に私は、父の居ない世界で、妹と二人で台所に並び、互いに笑いかけながら、暖かいお湯で一枚一枚丁寧に皿を洗う夢を見た。夢の中で私たちは、一日ごとに皿を洗う役と、洗った皿を受け取って布で拭く役を交代していた。私は妹の指が心配で、当番ではない日も妹にお願いして皿を洗う役を譲ってもらおうとするのだけれど、妹は私の指が心配だからと言って、絶対に譲ってはくれないのだ。

 きっと違う場所で、私が夢想するに同じくして、妹も私との生活を切望している。私がされているように妹もまた虐げられているから、私一人が挫けてはいけないし、お姉さんの私がいつか母から妹を解放してやらなければいけない。それまで挫けてはいけない。挫けてはいけない。
 けれども厳酷な事に妹は幸せだった。
 私は私と妹に不平等を与えた父と母が、堪らなく憎かった。



 豚は食まれる事を峻拒した瞬間に、生きる意味を失う。



 服と靴と、みかんを二つ盗んだ。
 確かに"絶"が有れば、後は監視カメラにだけ注意していれば好きなだけ持って行けた。それは父親の下に在った時も同様で、有る所から必要な分だけ持ち出せたのなら随分と生活も違っただろう。ただ、私にも、犬の餌にもならない矜持が一つか二つ有って、昔の私ならば今の自分を慙愧に堪えないとしたに違いない。
 今の私がそれらを平気で破れてしまったのは、そのちっぽけな矜持が非生産的なものであったばかりか、自分の中で己の行動を妨げるような害悪の芽になるのを恐れたからかもしれない。加えて言うなら、過去の自分を高尚なものとする心を認めたくなかった。
 認めてしまえば、自分が下らない物に堕ちてしまった感覚を否が応でも味わう事になる。
 そしていつか、その糊塗が風に吹かれて私を見捨てどこかに飛び去ってしまったとき、もしも隣に妹が居なかったのなら、私は破綻する。

 みかんを丁寧に剥きながら、そんな事を考える。ああ、プティが欲しい。彼女は私が居ないと生きていけない。そうに決まっている。あの細い腕、傷のない肌、色の有る唇。どれをとっても社会で一人で生きていける風には出来ていない。きっとあの子は、親鳥を失った小鳩の様にぱたりと枯れてしまうだろう。私が、私が守らなくては。あの子には、私が必要なのだ。
 そう、そうだ、私は妹に必要とされている。あの子が私に傍に居て欲しいと、願っている。
「みかんがこんなに甘い食べ物だなんて、知らなかったな……」
 いつかお金が稼げるようになったら、今度はきちんと買って食べよう。



 父を殺した日の私は朝から緊張ともう一つ二つの何かで、酷く醜い顔をしていた。夕食の用意が終わって、父が帰ってくる時を待つ。
 足音が近づいてくる。もうすぐだ。父が帰ってきた。
 ドアノブが回った。父の姿が現れる。そして父は後ろ手で薄いドアを閉めた。
 ビニールの袋を提げていた。ビール缶が三本だけ入っている。今日は父にとっては取るに足らぬ一年の中の一日。私の誕生日だ。然れど今年から、私にとっては別の意味を持つ。
「おかえりなさい」
 父は一瞥だけしてどかっと座り込む。そのままビール缶を空け出した。いつもの事だ。私が挨拶を忘れたのなら火がついたかの様に怒り出すが、私に対して挨拶をしたりしない。しかし八年間のそれも今日で終わりだ。
 考えに耽っているうちに、早々に父は一本目の缶を空けてしまった。二本目の缶に手を伸ばす。飲む、飲む、飲む、空ける。三本目の缶に手を出す。買ってきたビールがもう無い事に気付くと父は途端に機嫌が悪くなるので、飲み終わる直前に仕掛けるのが良い。父は三本目を飲む、飲む。
「『子豚の家』」
 私の念が部屋いっぱいを覆った。思わずビール缶を取り落とした父が、大きく開いた目で私を見る。馬鹿みたいに口を開けている。油のような顔にブラシでべたべたと、いたずらする様に驚愕を塗りたくった気分になって、すごく愉快だった。私は嘲笑した。
 ここからが正念場だ。私はあらかじめ用意していた文句を持ち出す。
「この念が発動したら、5分が過ぎるまで"誰も、私でさえ出ることは出来ない"よ」
 訝しげに父は、部屋の壁を力いっぱい念で殴った。ともすれば隣人の生活音が聞こえる程に薄い壁が、ぴくりともしない。あの顔はまだ危機を感じていない。私が何故自分に刃向かうのかが心底理解出来ていない、という表情だ。
 私は段取り通りに進める。
「それではこれから、『能力の説明を始めます』」
 私は普段から私が座る場所に身を屈めて座り込んだ。
 父はアルコールに因ってか、頭に血が程よく回っている。そろそろ爆発するかな。
「まず、この能力は『発動から5分間、5×5メートルの範囲内に効果を及ぼします』」
「……んの、エアル!!」
 限界を過ぎたようだ。父が派手な音を立ててテーブルを叩き割り、立ち上がる。すぅ、と勢い良く息を吸って、口を開く。
「お前は、お前は何をしているか解っているのか! 誰がお前を養ってや……がッ!?」
 黄ばんだ蛍光灯の光を遮るかのように、父の頭上に大きな"拳"が姿を現す。そして勢い良く引っ叩いた。頭を思い切り叩かれた父はぐらりと足を揺らす。そう、これだ。これが見たかったんだ! 私は念が上手く発動した事に安堵する。
 何が起きたのか、一片も理解出来ないままに父は畳の上に倒れ伏した。
「『能力の発動と同時に、絶対者の拳が現れます』」
 父は覚束無い足取りで立ち上がる。血が流れる額を押さえながらだ。
「『絶対者は不規則に、範囲内の対象に攻撃します。この対象には能力の発動者も含まれます』」
「こ、のッ」
 朗々と説明を続ける、父の存在をまるきり無視した私の態度が気に喰わないらしい。父は大声を上げた。私を殴ろうと手を上げた。
 また絶対者に殴られた。予め身構えていたようで、今度は倒れない。
「あ、大声で喚いたり、立ち上がって不躾なことを言ったりしても殴られるよ。絶対者の気に触るようなことをしても殴られるし、運が悪いと良くわからない理不尽な理由で殴られたりもするかな」
「お前は」
 父が私に掴みかかろうとするところを、もう一度絶対者の拳が襲う。父はそれを予測していたのか、余裕を持って避けた。
 その行為は拙い。
「絶対者が、怒っちゃうよ」
 私の言葉を皮切りにしてか、突然に父の後頭部を拳が襲った。衝撃を受け止め辛うじて踏み止まるも、間髪入れずに頬骨を拳が襲う。次は逆の頬を襲う。そして絶対者は、ゆらりと父を浮き足立たせたままに直上から、拳を振り落とした。父は堪らず崩れ落ちた。
「怒ってしまったから、気絶するまで、いや、気絶してもパンチは止まらないと思う」
 絶対者が、畳み掛けるように嬉々として殴っている。私はもう父が聞いていないであろう説明を宙に向かって続ける。
「発動者は、『説明を始めますと言ってから、説明を終わりますと言うまで嘘をつくことができない』」

 二分後、時折思い出したように痙攣するだけになった父の上から、私は包丁を落とした。血が飛び散り、部屋と私を汚す。
「ああ、それから、『能力発動時に使用者が背にしていた壁を二回ノックすると、能力の範囲外に出るための扉が現れます』」
 事切れた父に向かって私は説明した。
「実は結構簡単に出れたんだよ。"脱出できない能力"がどうしても作れなくって」
 やった、上手くいった。
「これで『説明を終わります』」
 さようなら父さん。



【子豚の家】
 強固なオーラで5×5メートルの範囲を包み、宙に拳を具現化する。
 具現化された拳は、発動から五分間、オーラの中に存在する人間に対して、無差別に攻撃を行う。
 能力の発動時に発動者が背にしていた面を二回ノックする事で、オーラの外に出るための扉が出現する。

 条件A、能力の発動者は、発動から三分五十秒以内に、範囲内に存在する全ての人間に聞こえるように能力の説明をしなければならない。
 条件B、発動者は『説明を始めます』と宣言してから、『説明を終わります』と宣言するまでの間に嘘をついてはならない。
 これらの条件を破った場合、能力は消滅する。



Re-birth
what was wrong


 肉親、父を殺したという幽暗な負い目が、怨言となって心臓の上を這いずり回る。
 決してふくよかとは言えない胸の上で、私はもどかしさに苛まれつつ指を立てた。簡単に肋骨までは到達する。そこからがむしゃらに指を押し込む。念によって頑丈さを増した私の指と、胸は拮抗を保ちながら苛立ちのみを募らせる。肋骨は酷く堅いものだ。心臓を守っているのだから当然の事なのだろうが、それが酷くもどかしい。
 私の心臓は今酷い禍害に晒されている。
 教科書か何かで一度見た事のある心臓、ぬめりとピンク色に照る臓器が脳裏に浮かぶ。その何か、果物に例えるならば何だろうか。歯を立てればつぷりと穴の開いてしまいそうな柔らかさを持った心臓の上を何かが這いずり回っているのだ。これが自責の念、というものだろうか。酷い恐慌に陥っている。その怨言を指で剥ぎ取りたいのだ。指を立てる。胸に指を立てる。心臓まで手が届かないこの隔靴掻痒に気が狂ってしまう前に、私は頭を振って苛立ちを収めようとした。
 強い吐き気がする。
 非力な指に精一杯力を籠めて、頬骨、米神を纏めて指で潰すように覆った。一瞬心臓の痒みを忘れて、頭蓋骨が軋む音とその痛みに声を上げる。咄嗟に指を離す。
 そしてまた両の指で頭蓋骨を圧迫する。脳漿が飛び出そうだ。

 私は気を失うまでそれを繰り返した。



what was wrong



 一日歩いて探さねば見つからぬ程に減ってしまった電話ボックスの中で透明な壁に背を預けつつ、私は溜息をついた。夜は眠れなかった。夢の中で延々と恨み言を吐き続ける父に苛まれ、跳ね起き、そして気を失って次に気がついたのはそろそろ日が真上に届くかという頃だった。それから六時間ほど歩いた。
 先程寄った公園で飲んだ水が妙に美味しかったせいか(困ったことに家のアパートの水道水よりも美味しく感じられた)まだまだ体力は残っているが、気力は消える寸前と言っても良かった。もし誰か、正面に立った人間が好奇心に好色を加えた気分で容姿を一目見ようとしたのなら、深淵の底を思わせる目の隈に驚き逃げ出していただろう。ふと目を横にやれば、外の町並みをバックにした酷い顔が半透明で映っている。
 私はふっと息を吐いて、公衆電話の下、電話番号の書かれた冊子に手を伸ばした。H、Ho、Hor、Horai。ホーライ。ケイ=ホーライ。あった。
 意気揚々と私は電話ボックスを出た私だったが、空が赤らみはじめた事に後悔したのはいくらか歩いてからだった。私の都合などお構い無しに、日は何かに引かれる様にどんどん加速しながら地に落ちていく。家を訪ねる確実に夜になるだろう。しかし、夜である事は悪くない。今日は私の記憶違いでなければ平日であったし、どちらかを出し抜いて話がしたい訳ではなかった。それに妹一人を訪ね、その足で彼女を攫っていけるとは流石の私も考えていない。それは、無理だ。悪い理由を挙げるのならば、ただ私が一歩足を進めるごとに、着々と暗くなっていく世界そのものが嫌だったのだ。
 そして私にとって日が暮れると共に毎晩やってくる"父親"は、この世で一番に嫌なものだった。



 エアルとの面会が一方的に終わってから三日の間絶え間なく、重苦しい感情が隅々まで立ち込める部屋で、椅子に座ったプティは台所を肩越しに見遣った。そこでは彼女の母親が、夕飯の支度をしている。
 ふと彼女は何か、釣られるように母親に向かって声を出した。
「お母さん」
 躊躇い気味の喉は上手く震わない。いや、喉は震えているのだろうか。ただ、息が流れないだけか。それとも、どちらも上手く使えていないのだろうか。プティは自分の擦れた声に驚き我に返った。
「ねえ、あ……お母さん!」
 若干強めの声を。今回は上手く鳴ったようだった。声が出ない、言葉が出せないなんて本当にどうかしている。
「どうしたの?」
 母が手を止めて自分を見遣ったとき、プティは頬が勢い良く赤くなったのを感じた。理由などない。ただ、漠然とした不安、寒気だろうか。その何かに駆られて彼女は声を出したのだ。確かに自分はたった今母の声を聞いて安堵することが出来たが、そんなつまらないことで母の手を止めてしまった。折角母が丁寧に夕飯の支度をしてくれているというのに、自分は何をやっているのだろうか。
「ごめんなさい、何でもないの」
 そう言って頭を下げたプティに、母親は訝しげな顔をした。取りようによっては心配気な表情で言う。
「もしかして、エアルの事、かしら……?」
 プティには自分の体が、己の意思に反して大きな物音を立てて硬直したのが解った。そんなつもりなど全くなかった。自分が暗い影を背負ってしまえば、母に要らぬ心労をかけることとなる。それは望ましくなかった。限りなく普段通りに、気丈に、さり気なく。
「そんなこと、ないよ」
 けれどもプティの母親は、そんな態度の彼女を見据えていった。
「嘘よ。わかるわ」
 それに付け足して、今度からこういう嘘をつくときは、私の顔を見ないようにした方が良いわ、と言った。それからでも声色で解ってしまうわね、と呟いて、文章にでもしたらどうかしら、と笑った。
 それにプティがペンが揺れて文字がぐちゃぐちゃになってしまうかもしれないから、今度からはコンピューターで印刷してきます、と冗談を言った時のこと。

 チャイムが鳴った。



 扉一枚で隔たれた、暖かな家庭と孤独な訪問者。



 チャイムを鳴らした。

 私は胡桃色のドアの前に立って、息を落ち着けた。鍵がかかっているのを確かめたわけでもないのに、その私はここを通さぬぞと黙した姿が妙に恐怖を煽る。ドアがそんな事を言うわけではないから、まるきり私の勘違いである筈だが、私は怖い。この扉が開いたら、何が出てくるだろうか。妹か、母か。
 扉の向こうから軽快な足音と共に誰かが近づいてくるのを感じて、私は息を止めた。ひきつったと言い換えても良いだろうか。
「どちらさま、ですかー?」
 ドアノブの回る音、半分だけ開くドア、中から香ってくる夕食の匂い。そして妹の声。
「……ぁ、あ、の、私」
「私?」
「エアル、です」
「っ、姉さん!?」
 外はとても寒い。だから喉は思い通りに動かず、声がぐらぐらと震える。凍えろと言わんばかりに寒いのだから、仕方の無い事だ。私の心とは関係がない。関係ない。
「あの、……。あのね、入っても、良い、かな……?」まだ寒い。
「ダメなわけないよ!」
 慌てた声でチェーンを外す。私の前にプティが姿を現した。
「そっか」ありが、とう。
 大きく開いたドアの向こうから、部屋の暖気が流れ出たのだろう。暖かかった。
「入って?」
「うん。おじゃまします」
「いらっしゃい。……一緒に住めると良いな、姉さん」
 本当に、そうだ。
 私は次第に赤みの差し始めた唇を強く噛んで、磨耗した靴を脱いだ。私の手を引く妹の手のひらは、本当に温かかくて、その熱は腕をつたって私の頬骨を熱くした。
「床、ぴかぴかだね」
「玄関の近くは、お母さんが気を使ってるからね。汚すと怒られちゃうの」
 そのフローリングからは、大人の見栄もあるのだろうが、訪問者が快くあるようにという気遣いが見て取れた。きっと疚しい事は一つも持ち合わせていない訪問者ならば、気を良くすることの保障された空間であった。けれども私の目には、あたかも一切の汚わいを許さぬ厳正な神殿であるかのように写っていた。
「私、靴下汚いわ。脱がなきゃ……」
「あ、そんなことないない! 脱がなくていいよ。だって」
 プティはそこで喉を震わせることを止めた。それから人好きのする笑顔を浮かべて、「全然気にしなくていいからね」と重ねたのだ。そして私は「だって」の続きが解ってしまった自分をくびり殺してやりたくなった。
 だって、お客さまにそんなことさせられないよ。
 至極当然の事だった。私だって私がプティの立場で、訪ねてきたのがプティ以外の誰かであったらそう言ったに違いない。私にとってはその例外がプティで、プティにとっては母であっただけの事なのだ。



 小奇麗に整えられたリビングに辿り着いたとき、私は慣れぬ廊下の長さに少しばかり嫉妬しつつも、息を整えるだけの時間を自分に与えてくれたそれに感謝した。親でありながら子を育てることを放棄し、劣悪な環境に捨て置いた母への殺意を持て余していた私自身は、例えて言うなら口の結びを解かれてしまった風船のように萎んでいってしまった。確かにそこには、針を立てられた風船のように、という表現ができない心許なさがあった。
「あの、こんばんは」
 リビングで夕飯を配膳していた母に声をかける。妹はそれを見て然も当然であるという風に手伝いを始めた。他人の家の夕食時に訪ねてしまったセールスマンのような体裁の悪さを感じつつ、俯き立ち竦む。
 母は私を見て、先ず驚愕し、同時に警戒した。けれどもその警戒ある目で私を上から下まで睨めつけてから、すっかりしぼんでしまった私を見て、本当に困ってしまったように愛想笑いを浮かべた。
「こんな時間にお邪魔しちゃって、すみません……」
 プティが、ここに座って、とでも言うように一つ椅子を引く。四人用のテーブルの、夕食が置かれていない席。それを見た母は、もう一人分くらいは何とかなると思ったのだろう。台所で食器を用意して、鍋の中に残っていたポトフを装い始めた。
 いただきます、の声で食事を始める。黙々と。気楽に会話が飛び交う筈の食卓は粛々としてしまって、本当に居た堪れない。

「……ねえ、姉さん。あの、あのね」
 私の隣に座ったプティが、膝の上に置いていた私の指に自分の手を重ねるようにして、こちらを見た。
「どうしたの?」
 愛くるしい顔は私の方を向きつつも、視線はふらふらと定まらない。私の指が感じる彼女の手のひらが、少しずつ汗ばんできたのを感じて、私はプティへの感情からか助けるように声を絞り出した。
「なんでも、言って?」
 くん、と妹が喉を鳴らす。
「前に姉さん、あの、殺すって言った……」
 心優しい彼女は言及などしたくなかったに違いない。だからこその今までの態度であった筈だ。けれど、一飯を共に過ごして、このままそれをなかったことにして、一緒に生活できるのではと思ったのかもしれない。この子は私の「冗談だったんだよ」という一言を切願しているのだ。
「あれは、うん。なんだかもう、どうでも良くなっちゃった」
 良くなってしまった。
 私は母が憎かった。
 私を捨て置いた母が憎かった。
 けれども、私は"お客さま"だったのだ。
 そして妹の向かい、私の斜め前に座る女性は私の母ではなく、"プティの家の母親"だった。
「じゃ、じゃあ! 一緒に暮らそうよ。一緒に、一緒に!」
 感極まったのか、私の手を取り胸に抱いた妹を私は、漠然と素敵なものを見る目で見つめていた。プティは本当に好きだ。十四年間慣れ親しんだ自分自身よりも好きだ。好き、好きなのだけれど、彼女のためには母が一緒に居ることが至上であったから、私はその中に入りたくなかった。
 ごめんなさい、そう言おう。私は暖かい料理で、少しばかり艶の出てしまった唇を開きかける。
 そのときテーブルを挟んで向こうに座っていた母が、決心したとばかりに立ち上がった。私とプティは動きを止める。
 そして母は、何を思ったのか私の席の後ろに立って、事もあろうに私をその大きな腕で抱きしめたのだ。母の体の熱に触れて、思わず眼を見開き硬直した私に向かって母は言う。
「エアル、今までごめんなさい。これからは一緒に暮らしましょう。
 私とプティとあなたで」
 その言葉を聞いて、身体が私の意思を離れ細かく震えた。そんな私の体を母はより一層強く抱いて、言葉を続ける。
 やめて、やめて、言うな。言わないで――
「あなたは、あなたは私の娘なんだから」

 やはり母は私の母だった。
 そして私は私の母が憎かったのだ。

「お客さんだから、憎くなかったんだよ」

 私は沸々と湧き上がる激情を抑えきれぬままに母を突き飛ばし、惣暗に侵された視界に目蓋で蓋をしつつその場に蹲った。
「エアル、あなた一体どうし……念!?」
「『子豚の家』」

 いらない、いらない、いらない。
 貴女なんて、死んでしまえばいい!



Re-birth
to live inside me


 そう広くはない部屋を囲った私の念は、母を包み、そして彼女の面をいやらしい色に変えた。私はその色に、ビニールの中で酸素を失った縁日の金魚を覚える。感じる惣暗とした悦びは私の唇を均等に引裂き、下唇の上に、少し短めの舌で艶やかな赤の三日月を模った。一時の瑞々しさのみで潤ったそこを、今すぐ生命の赤で染め上げてやる。
「あなたは今から、小さな、小さな、小さな」
 私は緩慢な動きで、殊更足音を立てない、目を引かない動きで以って埃のない部屋の隅にうずくまると、犬歯をむき出しにして言葉を繋げた。
「小さな小さな小さな」
 私はぎち、と正面を見据えた。
「小さな――――、子豚だ」
 私は歯に挟まった食べ物のごみを吐き出すように言った。
 母に向かって、一度目の拳が振り下ろされた。



to live inside me



 私の能力は非常につまらないものだ。もう随分と長い間、毎日変わることなく繰り返されてきた私の世界の全てを、ただ念によっていつでも再現できるようにしただけの、簡素なものである。
 念の修行もそう苦しいものではなかった。小汚い指南書から教わった、"発"を使うために最も効果的な、イメージ、という壁は、夢の中ですら私に襲い掛かるその世界については今更という言葉が良く似合っていたし、実力だけは確かだった二親の間に生まれた私自身の体、性能は、才能の枯渇に絶望しなくても良い程度には優れていた。
 方法さえ知っていれば複雑な手順も技能も一切必要ない脱出の仕方という苦しい制約が、幾らかの系統を併せて再現する私の念を無理のない物に作り上げている。更にそれらの脱出方法からその他の制約に至るまで事細かに戦闘中、制限時間内に説明しなければならないという制約が、苦手な筈の強化系統、それを使った攻撃力の水増しに随分と役立っていた。しかし、一度発動したら確実に敵の息の根を止めなければいけない、再戦でもしようものなら確実に対処されてしまうであろう制約と見比べたとき、私の念の攻撃力、殺傷能力は随分と粗末なものだった。
 つまりこの能力は、思考力判断力が常時低迷していて、意に沿わない事でもあろうものならすぐさま宙に向かって大喝し、状況判断もせずに、どんな物事も殴りかかれば解決すると本気で考えている、つまり父のような人物にのみ有効な念なのだ。父は霊長類を名乗るには酷く単純な構造をしていたし、私はその構造を割かし正確に理解していたので、自分でもため息が出るほどにあっさりと父を処理できてしまった。将に御誂え向きの能力だったのだ。そして私は母も父と同じように矮小で、愚劣で、考えなしで、簡単にこの念に嵌まり込んでしまうだろう、と考えていた。
 しかし目の前の現実は、考えなしが私の方であることを丁寧に示唆していた。



 私の念の拳は、予想のつかない瞬間に、気まぐれな方向から天災のように襲い掛かるものなので、基本的には、現れた時にはもう反応する時間がもらえない。世界には"円"という本物の怪物のような念の使い方をする人が居るそうだが、書物の中でしか知らない私にはどんなものか想像もつかなかったし、幸い母も使えないようだった。必死に私に向かって声を嗄らせる母は良い様に嬲られていたし、このままダメージが鬱積するならば私の勝ちが見えてくるように思えた。
 ところが、私の「拳は拳の気まぐれで振り下ろされるよ」という説明を聞いた母は、以前一昼夜かけて家の中を隅から隅まで半狂乱に探し回り、やっと見つけた宝物の花の意匠のヘアピンに壊れが見られなかったときの私のような顔をした。そして、すぐさましゃがみ込んで頭を抱えたのだ。
 体を小さく丸め、背中にオーラを集めた母は(恐らくあれは"凝"だ。以前本で読んだことがある)、痣ができた頬や額以外の別の何らかの痛みに耐えるように呻いた。やられた!
「なんで……? わかったの……?」
 思わず呟きをこぼす私に向かって、母は悲しげに眉を寄せた顔で微笑んだ。



 予測がつかない方向から、予測がつかない瞬間に。私はそう説明するようにしているが、私自身だけは今までの経験によってある程度予想をつけることができる。初発がいつどこから来るかに関しては全く分からないが、左の目元、頬骨を狙う癖が父にはあったし、両の掌で顔を覆えば額、両の腕で額も覆えば脳天に拳が飛んでくるのはまず間違いない。脳天まで隠せばお腹に普段の二割増で力を込めたそれが飛んでくるし、後ろを向いていれば首元に容赦なく上から拳が振り下ろされる。そして頭を抱えてしゃがみ込む行為がどれだけ父の顰蹙を買うかに関しては想像を絶すると言わせて貰っても構わないだろう。だがしかし、極めて忠実に再現したはずの私の念だが、一つだけ忠実ではない部分が存在する。それがここだ。
 母が唐突にとったポーズは、私にとってはとても馴染み深いものだった。父に殴られ続けていたとき、私も良くあの姿勢で必死に堪えていた。問題はここからだ。私は普段、あの体勢で耐え、そして気絶し、そして父の機嫌の直った、あるいは居ない翌日に目を覚ますのだ。つまり、あの体勢をとることと、父の暴力から解放されることが、私の中ではイコールで結ばれているのである。
 しかし、この私の念の中で意識を失うことは、私の手によって無防備なままに縊り殺されることとイコールで結ばれている。救いがないのだ。それは私の念に大きくない矛盾を与える。
 二、三発の強めの拳を貰った後に、母は拳から開放された。
 微笑む母が、娘のことは良く理解している、そう言って格好を崩す厚顔無恥で無理解で、そして世間一般で言うような普通の母親に見えてしまって。普通の、私の、母親のように見えてしまって、悔しかった。
「……。ねぇ、死んでよ。なんで。
 ねぇ、なんで?
 なんで! なんで死なないの? なんで!
 ほんっとに理解できない! おかしいんじゃないの!?
 お願いだから、お願いだから……っ!」



 ここからは、振り返って妹に聞いた話になる。
 半狂乱に頭を振り回し、醜く赤黒く充血した目で母を睥睨した私は、父がそうするように拳を振り上げて母に掴みかかったらしい。薄らぼんやりとした記憶の中で、そうした自分が居た気は確かにする。するのだが、私の頼りない頭の中で唯一鮮明に残っていることといえば、全身の血という血が全て脳に向かって収縮した感覚だけという、思い出してみても恥ずかしい激昂ぶりのみである。
 何となく覚えがある。しかしそこから先は欠片ほども思い出せない。
 そう言った私に向かって妹は、姉さんは逆に殴られたのだ、と言った。

 絶対者の拳は特に、自分以外の騒ぎ立てる存在、自分以外の分を弁えない存在、そして自分以外の頭の高い存在を執拗に殴り続ける。そのとき母は頭を抱えて蹲っていたし、対照的にそのときの私は散々喚き散らして拳を振り上げていた。至極当然のように拳は私に向かう。
 真正面から頬を殴られ、それでも私は掲げた拳を母に振り下ろしたくて仕方なかったのか、二発目を貰った額、三発目を貰った米神から流れ続ける血をそのままに強引に母に向かおうとした。しかしそこで、冗談にならないペースで前後左右から顔を殴られ始めた私を見た母が、立ち上がって自分から私に向かって顔を出し、そして痣になるいくつかを丁寧に手入れされた顔、肌で受け止めた後に私を抱きしめたのだと言う。そして全身で以て絶対者の拳から私を庇ったのだとも。
 この先は何となく覚えている。



「ちょ、ちょっと、止めてよそういうことするの!
 あなたは大人しく殴られているだけでいいの、私の分まで殴られる必要なんてないの!」
 しかし母は、より一層体を大きくして、母がそうするように私のことを宙に浮く拳から大切に隠し込んでしまった。困ったことに、私が殴る必要が一切なくなってしまった。母の肩やら何やらから異音が聞こえ出したのだ。私はそれが骨に罅が入ったり折れてしまったりしたときに聞こえてくる音である事を知っていた。
「……ねぇ、エアル。プティを……っく! ……見て、頂戴」
 こんなときに何を、とがなり立てた私を遮って、母は続けた。
「とても、綺麗に、なったでしょう。
 肌の色も、髪の艶も、痣な……ん、て、一つも、ないわ」
 母は痛みに耐えている。鈍い音は鳴り続ける。
 そこが折れると拙いのではないのか。そこが折れると命に関わるのではないのか。
 母は言葉を続ける。
「本当は、こうしてあなたのことも、守りたかった。でも、詰らない、詰らないプライドがあったの」
 きっと母は、妻という名の家庭内弱者の立場に立って、父の家庭内暴力という名の示威行為に屈したくなかったのだ。婚前の父と母は互いの力を認めあう関係だったという。
「昔から私は、プライドに拘る嫌味な女で、それは、今も、変わってないわ。
 いずれ……」
 そのとき丁度折れ下がった母の右肩が駄目になる音は、私の心臓の音に掻き消された。血と骨と決して少なくはない量の肉片を、"凝"で守っているのだろう頭、首、背骨にぶら下げ留めながらも、私を守りそして語りかけている。
「……いずれ、プライドに、拘らない人間になって、あなたと、プティと、三人で」
 今はまだその時ではない――――
 私の前で、何度も何度も何度も何度も殴りつけながらも、決して声を嗄らすことを止めようとしない彼女の正体を、私はやっと理解することが出来た。
 母のプライドの具現。
「エアル」
 母は言った。
「好きよ」
 そして、殺意のみを纏って母の首筋を狙う拳が振り下ろされる中、限界が訪れたのであろう、ふと電気を絶たれたシャンデリアのように彼女は念を枯らす。私は、ああ、あれが当たったら命はないだろうな、と確信を持ちながらも、真正面から言われた無条件の好意が信じられなかった。
 信じられなくて、噛み付くように叫んでいた。
「お母さんなんかっ、大っ嫌いなんだからぁあ!!」
 そのとき直ぐそこまで迫っていた父の拳は、幻のように掻き消え、



 条件B
 発動者は『説明を始めます』と宣言してから、『説明を終わります』と宣言するまでの間に嘘をついてはならない。
 条件を破った場合、能力は消滅する。



 父を殺した犯人は、私ではなく、実は母だったということになった。気づいたらそうなっていた。そして、父を殺したことになっている母がどうなったのかというと、彼女が差し出したハンターライセンスが全てを解決してしまった。
 私が父に虐待されていたことが参考として挙がっていたらしく、離婚して離れ離れになった先で虐待されている娘を助けるために資格を行使した賢母、そんな美談が出来上がってしまっていたらしい。右手は義手で、左腕が肩から上に上がらない母の真新しい手術痕を「別件です」と言い切る母には、警察の人も強く言えなかったに違いない。
 私は真新しい制服におかしなところがないか、もう一度確認すると妹と二人で玄関を出た。

 指先を絡めて強く引き、今にも駆け出そうとする妹の手を、きゅっと引き返す。そして私は、ゆっくり行こう、と笑った。
 この新しい生活がいつまでも、ずっと、飽いてしまう程いつまでも続く、平凡で平凡で仕方のないものであることを、玄関先で微笑む母が保障してくれていた。


fin end