わたしの使い魔が言っていたわ。
この世で一番、それも女王さまが毎日頬張っちゃうほど美味しいパイにはね、
あふれるくらいの、トリック(いたずら)とゴシップ(うわさ話)が詰まっているのよ。
Oona-Gang Louise!!
谷は呼吸する。
その場所にとって、空気の清廉さは殊更大事だった。奥底から猥雑さとは無縁のようで、異邦人ルイズとしては、自身の制服の焦げ目すら懸念足り得る。
吹き抜ける風は谷の呼気であり、吸気であった。ルイズは呼気に攫われ、今し方紛れ込んだばかりだ。後に回顧すればそれは、本意ではなかったが、確かに幸運だった。そのときはただ、何故と嘆く気持ちばかりであった。使い魔を召喚するためのゲートが、あろうことか召喚主たるルイズを飲み込んだのだ。
そしてこの場では、この至上の場では、己が召喚主である! などと広言する気が匙一杯分も湧いてこない。
あたりを囲む木々の肌、流れる小川は、月夜の青みを帯びて薄らぼんやりときらめいている。
ルイズは声を嗄らした。
「不敬な質問を、おゆるし、下さい」
まさに今、頭を垂れることの安堵を味わっている。愚昧な顔を向けずとも許されることの安堵。その存在に正面から圧倒されることのない安堵だった。
「――特別に許す」
頂に座る花々のようなものが言った。宗教神のごとく不確かで、言葉では正確に表現することができない。己が信奉する始祖ブリミルでは決してなかったが、不思議とその花々のようなものからは、神を感じた。
貴きものである。釣鐘水仙、凌霄花、青、赤、紫の数々が、二つの目でルイズを見おろしている。
「私めはルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールと申します。
ここは……、ここは、どこでございましょうか」
ぶうんと、花々のようなものの傍に控える、長い耳と羽根を持つ小人――所謂妖精が、薄長の羽根を鳴らした。
下を向いていたルイズには解らなかったが、花々のようなものはその妖精の一匹に視線をやった。
一匹は一歩前に出て言った。
「――エレンドラ谷、ウーナ女王の御前である」
そこは幾千、幾億もの妖精を従える超大な女王、ウーナの谷であった。
ただただ、彼女の発する荘厳さのみがルイズに襲い来る。つむじを押さえられ、額をつけよ、床につけよと心の奥が体に命令する。
しかし、と、ルイズはそれを振り切った。どれだけ圧倒されても、忘れてはいないことがあった。今日は使い魔の儀で、これはサモン・サーヴァントの続きなのだ。暴発ばかりの己が魔法が応えた、初めてのリアクションだった。
この期を逃してなるものか。一生ゼロのままでいいのか。
そして言った。
「使い魔を戴きたく……」
その後のルイズは多弁であった。ただただ、使い魔の下賜を請願した。
サモン・サーヴァントや、コントラクト・サーヴァント。トリステイン魔法学院、トリステイン国、ハルケギニア等々。沢山のことを説明した。
女王は一つの質問をした。
「――ハルケギニアには、エルフか、ゴブリンは居るか?」
「エルフが居ます」
「そうか。……一輪許す。持っていけ」
女王は己が体からスミレの蕾を一輪だけ摘むと、それをルイズにやった。
ルイズは大逆の徒エルフの征伐に同調して下さるのだと思い、ウーナは配下の幾人かが友好を示すエルフを支援してやろうと考えてのことだったが、このすれ違いは今日の話に特別関係ない。
ルイズが賜ったスミレの蕾は、名を苦花というらしい。
やがて意識が薄れる。
「……ァリエール! ミス・ヴァリエール!
おお、気がつきましたか?」
うっすらと不確かに揺らいでいた意識が定まりだし、ルイズがはっきりと覚醒したとき、そこはエレンドラ谷ではなくトリステイン魔法学院であった。中年の教師、コルベールが彼女の顔を覗き込んでいる。
「ああ、はい、ええと? ミスタ・コルベール?」
「気がついたかね。立ちくらみを起こしたようだが」
「平気です」
「よし、ならば儀式を続けなさい」
「え? は、はい」
召喚されたのは、群青色の妖しげな花の蕾だった。僅かに溜まった露が、今日の日の強い日光を反射している。
「我が名はルイズ・フランソワーズ……」
呪文を唱え、花に杖の先端をそっと当てた。そしてキスをした。
やがて花弁の一枚にルーンが現れ、契約は成功したようだった。
「ルイズには草が限界だったかー」
「生き物は無理だって自分でも解ってたから、ゴネないで契約したんだろ」
何人かがそう言って笑う。ルイズは余程先ほどまでのことを喋ってやろうかと思ったが、やめた。上手く説明できるはずがなかったし、彼らの誤解を解くためだけに、ウーナの名前を出す事は、いかにも不敬であるような気がした。
「終わりました」
ルイズはコルベールと向き合い言った。根が見えている苦花は胸に抱く。
「よろしい。じゃあ皆、教室に戻ろうか。
とはいえ、授業はもう終わりだ。各々使い魔に入り用なものを揃える手配をするように。学院を通して手配する者以外はそのまま行っても構わないよ。
ああ、例えばミス・ヴァリエールなら、植木鉢が必要だね?」
「はい。わかりました、ミスタ」
ルイズは一度自室に向かい、一通り部屋を調べて鉢の代わりが見つからないことを確認してから、同級生モンモランシーの部屋の戸を叩いた。
「ヴァリエールよ。ごめんなさい。モンモランシー、居る?」
「居るわよ、どうぞ。どうしたの?」
招きに応じ、片手で戸を開ける。もう片方では苦花を抱いたままだ。
「ありがとう。それでね、あなたって秘薬の授業とか得意じゃない?
自分で栽培をしてるって噂も聞いた事があったし、ひょっとしたら、自前の植木鉢とか、あまってない?」
「え、植木鉢? ええ。ちょ、ちょっと待ってね」
妙に焦った様子のモンモランシーを尻目に、彼女の部屋をルイズは見回す。幾つもの草木が並んでいる。ルイズは勉強熱心だったから、教本に載っているものはすぐに見分けがついたが、そうでないものが植えられた鉢も散見された。
体の悪い次姉の助けにならないかと、公の書物に度々目を通していたルイズの知らないものと言えば、確信に至るまで効能が証明されていないか、公の書物に載らない類のそれかだ。あるいはモンモランシーに観葉趣味があり、特別効能のないただの草花なのかも、と彼女は考えた。
「ねぇモンモランシー、痛み止めのあの花と化膿防止のあの草の間の花って……」
「なんでもないわよ!? ……ほ、ほら、これ、使ってない植木鉢。あげるわ」
そう言って、栗色の鉢を差し出してくる。ルイズは失礼を目で謝りながら、片手でそれを受け取った。
「ありがとう、助かるわ。後から何倍かにしてお返しするから、期待していてね」
「ヴァリエールの倍返しね、期待してるわよ」
室内の草花をルイズの視界から遮るようにモンモランシーが動きながら、相槌を打った。
「早々でごめんなさい。もう失礼するわ。土とか、用意しなきゃいけないの」
「ええ、頑張ってね」
ルイズはもう一度頭を下げて、モンモランシーの部屋を後にした。
鉢の中心に苦花を据えて、上手く土で満たす。
日は下りはじめていて、そろそろティータイムが終わる頃だった。
ルイズには、昼下がりに優雅な歓談を持つような友人がいなかったから、テラスなどを避けて部屋に戻る。話の上にしばしば自分の悪口などが載るとあれば、自然と忌諱もする。
苦花は土に根を張った後、すぐさま何か変化を見せるようなことはなかったが、夕暮れ時になって静々と兆候が表れた。
自室で書き物をしていたルイズは、いつの間にか何かの香りが室内を満たし、鼻をくすぐっていることに気づいた。
幼い頃の情景を思い起こさせる。胸が弾み、同時にどこか秘めやかな、好奇心を煽り立てるような気持ちにもさせられる。厳格さの体現であった長姉の部屋に忍び込み、音を立てぬよう気を配りながら蜂蜜の在り処を探すような、甘酸っぱい思いを抱いた。
辿れば香りは、苦花からきているようだ。
徐々に膨らみだし、青色から赤色へ、そして紫色へと移り変わる。蕾は大きくなった。どんどん大きくなった。
そしていかにも夕暮れ時の花という顔で、そいつは一瞬で満開になった。ルイズは文字通り、瞬きを忘れた。
数秒だったろうか。数十秒だったかもしれない。
役柄を忘れられたルイズの瞼が、痛みにつられてぱたんと閉じたとき、苦花の変化は全て終わっていた。
青い花弁に夕日の色が混じり込んだ、気が狂うような紫の中心に少女が居た。可愛らしく、つつましやかに、猫があくびをするように、長い羽を伸ばして、妖精が一匹、軽やかに花から飛び出したのだ。妖精はすくすくと大きくなり、終いにはルイズの手のひらほどまで成長した。
そしてまた、苦花は蕾に戻る。
ルイズは唖然とそれを見ていた。
「ふぇ……!」
ルイズはぱくっと、慌しく飛び出そうとした言葉を飲み込んだ。万が一、大声をぶつけて逃げられるようなことがあっては堪らないと思った。
「ん? ……なあに?」
そんなルイズの様子を不思議に思ってか、妖精が首を傾げる。甲高い、子供のような声をしている。
「ごめんね。あなたって、フェアリー?」
「そうだよ? ご主人は、ご主人なのに、ウーナ様じゃないんだね」
「え、ええ、そう。あんたが生まれた花をね、ウーナ様から頂戴したの。
だから私が主人で間違ってないわ。うん、もちろん。あなたは私の使い魔。これ決定だからね」
ルイズが執拗に念を押すさまが可笑しかったのか、妖精はきゃらきゃらと笑った。
「使い魔って何? 何だろ、何の話?」
ぴんと指を立てて、ルイズは楽しげに説明を始める。
「私と目とか耳とかを共有したり、私の欲しいものを持ってきたり、私を敵から守ったり、かな。最後のはいいわ。あんたちっちゃいもん。危ないときは、私の後ろにいるのよ。
でも、一つめと二つめは頑張って欲しいかな」
妖精は再び笑い、羽を震わせてとんぼ返りをした。
「どう? 目が回った? ぐるぐるした?」
「……しないわね。上手く繋がらないかも。なんでかなぁ」
蛇足だがルイズの直接の使い魔は、植物の苦花である。
「二番目は、欲しいもの? わたしが集めるのはうわさ話だよ。ウーナ様の大好物。
おあいにくさま、ご主人とは直接繋がらないみたいだけど、明日になればもう一人増えるから、わたしの妹を肩に乗せてあげて」
妖精は窓のサンに、テレポート用の呪印を削りながら言った。
「明日増えるの?」
「うん、一日に一人、生まれるよ。
ウーナ様の蕾なら当然。わたしたちって、そういうふうにできてる」
ルイズは目を輝かせた。とんでもない使い魔だ。彼女自身、予感があったが、当然のようにその晩はなかなか寝付けなかった。
ルイズが寝たのは零時前後で、それから少し過ぎたころ、妖精は働きはじめた。
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