Numb |
白魚がするりと流れ抜けるように、私の腕が彼のうなじを滑る。そのまま回された右手が彼の輪郭をなぞり、ちくちくと髭の剃り跡を立て撫でた。 「あ、ん。んー…」 上げた指でそのまま目元をすい、と転がすように撫で付ける。丁度私の頭は彼の顎の下に来るので見ることはできないが、今、私の指の上には彼の白濁とした 瞳が居座っている。睫毛に触れた。 「このままちょっと力を籠めれば、アキトの目の、綺麗な白がぐちゃって潰れちゃう、ね?」 下睫毛から上睫毛へ。あやふやな私の指に、彼の拙い触覚が磨耗しきった危機感を覚えたのだろうか。彼の野太い腕が持ち上がって、私の首筋に触れた。神経 が先鋭になる。そこだけ酷くぞくぞくとしている。 アキトの指はそのまま私の首をくだり、外側から時間をかけて鎖骨をなぞっていった。いつでも首を絞めることが出来る彼に、私一人の命がまるまる掌握され ているという屈服感を感じ、陶酔し、鼻にかかった息をした。指は丁度二つの鎖骨の間のくぼみに到達した。そのまま、下へ。 「あ、そろそろ、駄目だよ」 私はアキトの右目で遊んでいた指を引いて、彼の頬を包む。そのまま顔ごと下に向けて、上を向いた私の唇にぴたりと合わせた。 「……」 そして一時の後に、零れた唾液を拭い取った。 「あ、そうそう。ねぇ、アキト。今日は地球に行く日?」 語尾にクエスチョンマークを装飾した問いかけは、本当のところ月に一度のそれが楽しみで仕方のない私の口から自然と漏れたものだ。十五歳になった私は人 並みにお洒落をすることを覚え、アキトを着飾ることを覚え、そして街に出た際に彼の恋人面をすることを覚えた。これが馬鹿みたいで底抜けに楽しかった。 街行く人の一瞬の目を思考の外に追いやって、さっと彼の赤らんだ下唇に私の落ち着きのない舌を滑らせる、これが今の私のささやかな幸せの一つである。先 日ソファーに座りながら、イネスがテーブルの上に用意したクッキーを全て食べ尽くしてしまって口元が寂しかった私が思わずそれをやってしまったとき、彼女 は私に「頭のネジが何本か抜け落ちているんじゃないかしら」と痛烈な皮肉を下さったけれど、私に言わせればギチギチにネジが一本も欠けず閉められている脳 みそなんて、想像しただけで吐き気を誘うほどに不良だ。 「ああ、そう、だ、な」 舌か、喉か。今の感じだと喉だろうか。もうそろそろステディな関係の死神から、死因は笑い死にですと示唆された老ピエロのように掠れたアキトの声はその ほとんどが聞き取れない。口の中がかさかさに乾いてしまったのか、喉が冷えて寿命間近の声帯がボイコットしたか。私は丹念に自分の上唇、下唇を舐めてから アキトの首に喰らいつくように唇と舌を押し当てた。きっと私とアキトを知らない誰かが私たちを見たら、その人はラピス・ラズリを吸血鬼だと思ったに違いな い。私は丹念に喉仏を舐め上げた。少し、暖かくなっただろうか。 「もう一回言って、アキト。今日は地球に行く日だっけ?」 「そうだ。アカ、ツキとエリナ、に会いに行かないと」 私はにまりと笑って頬を彼の人のそれに寄せた。 「随分な冗談だよ、アキト」 アキトの首筋を撫で回していた私の手が彼の目蓋をとんとん、とノックする。 「メインは、デェト。そうじゃなきゃ嘘よ?」 ひく、とアキトの喉が痙攣する。 「そうだ、っな。……すま、ない」 私は彼の喉仏に口付けしてから、音をたてて皮膚を引っ張った。 「…んぅ。よしよし、そうこなくっちゃ」 そしてまた、にまりと笑った。 *** [ since i was part of you ] *** エリナが激昂した。 「だから、うちの方で家を用意したから、地球に降りて生活しなさいって言ってるのよ!」 ネルガル本社ビルの近く、少しばかり高級感の漂うレストランで言う。テーブルの上には二枚の写真とプリントアウトされた幾枚かの資料。 「結構だねー」 「結構じゃないわよ!」 「違うよ、結構って言葉は本当は"満足だ"とか"文句のつけようがない"って意味だよ。最近変な覚え方してる人多いよね」 「満足なんだったら!」 「あーでも、建物は結構だけど、うん、趣味のいい感じだし。建物は結構だけど、私たちが住むかっていうと遠慮しちゃうなぁ。だってエリナが毎日来そうだも の」 「私はあなたを心配して…ッ」 エリナの顔が沸騰している。普段なら見れる顔をしているというのに、意中の人の前でこんなに醜い顔をするのは同じ女としてどうなのかと思ってしまう。い や、私が仕向けたのだけれど。 「ん、んー…。エリナは、私とアキトがユーチャリスで同棲してるのが気に入らないの?」 「あ…この…ッ。だから、同棲ってあなたね! どこでそんな言葉覚えたのよ!!」 「今更言葉で非難されるとは思わなかったなぁ…。私もう15歳だよ?」 「そう、貴女は15歳、本来なら中学校に通うべきなのよ!」 「中学校はともかくね、行為とかじゃなくて言葉一つでそんなに言われるとは思わなかったよ」 エリナがまた激昂した。 「エリナ、レストランでは静かに、ね。まぁいいや、ユーチャリスの整備のお金は振り込んでおくから」 よろしくね、と言って席を立つ。所々でエリナから飛ばされる唾がなければ、美味しいレストランだった。時間をずらしてアキトと二人でまた来よう。 *** 所々擦り切れた藍の作務衣を肌蹴たままに、北辰は梁に背を預けた。時たま看守が差し入れてくれる文庫本で、無粋な蛍光灯を遮りつつ読書に勤しむ事もまた 平坦な残り世のうちでは素晴らしいことの一つであったが、そのような日などは月に一度あるかないか。仮に自らと向かい合う事があるのであれば、激しく罵り 唾棄してしまわんばかりの体たらくだった。今日もそんな取るに足らない日々を過ごすのか。常人より幾ばくか切れの長い口元を歪ませ、隅に置かれた机を窓か ら照らす光が橙に染まるのを眺めている。 この座牢に移ってから三年になる。獄として囚人を責め立てる冷酷さがあるわけではない。逆に言うならば許容の極たる母に似た何かを感じさせる牢で、北辰 はここに来てから頻繁に、走馬灯に似た何かを感じていた。ただしその何かを感じた数だけ、陰の身でありながらも華やかだった過去の記憶は、現状に甘んじる だけの彼を激しく叱咤していた。 彼の御代、草壁春樹がその豪腕を掲げる。理想を叫ぶ。部下を激昂する。理想を叫ぶ。彼奴が悪だと指さす。そして理想を叫ぶ。北辰はその度に悪を切り捨て てきた。 ほんの数年前までは常に手元に置いていた切れ味の悪い日本刀は、北辰の腕力に応え数多の敵を塵芥に変えてきた。今はもうない。肉片が血潮を滴らせながら 宙を舞い、骨片が敵味方見境無く飛び散り突き刺さる。頬、唇、腕、指と返り飛ぶ血を払うように刀を振るいまた血を浴びる。それらは全て文字通り血となり肉 となり、草壁春樹の正義の道の糧となり、消えた。 消えてしまった。 「遅かりし、復讐人、よ。ああ、復讐人とは、我の」 北辰は唇を縫い付けて、梁から背を離した。鬼哭を聞いた。このような牢など、抜けるに易い。 その日、木連戦争における戦犯、木連人を多く収容した施設の一つから脱走者が出た。その施設から直線三〇〇メートルの線上で述べ十五人もの無差別殺人が 発生。凶器は人間の指。犯人はそのまま失踪。 草壁春樹という指針を失った北辰にとって、既存の秩序に組するものは全て悪であった。 *** 「こんばんは、私はホシノルリ。ラピスさん、起きてる?」 ラピスがシャワーを浴びてアキトと連れ立って就寝する時間になって、ユーチャリスに通信が入った。 「何? 私は今から寝るんだけど。アキトと」 アキトの袖を引いて、ルリに見せ付けるように腕を抱く。それを見たルリは、これ見よがしに溜息をついた。 「そろそろ止めたらどうですか? それ」 「うるさい。用がないなら切る」 「あ、用は有ります。アキトさんをください」 「バイバイ」 すぐさま電源を落とす。本当に用事があるのならデータベースにでも保存して送ってきているだろうし、明日にでも見れば良い。ラピス苛立ちを隠せぬままに アキトの腕を強く掴み、引いた。 「ああもう! アキト、行くよ!」 少し力を入れすぎたか、ラピスに引かれたアキトの腕は肘からずるりと外れ落ちた。皮膚の下に収まっていた筋がたわみ、爛れた肉が廊下を汚した。アキトの 苦悶の声が響く。 「あっ、ごめん! アキト。痛くない?」 剥き出しのセラミックの骨に反射する自分の顔に目を遣りながら、飛び散った肉を拾い集める。それをお椀型にした手のひらに乗せて、ラピスは部屋に戻っ た。 *** ルリは久方ぶりの休日を、以前からそうであったようにミスマルユリカの病室で過ごしていた。趣味の良い、けれどもルリの趣味ではない秘色の花瓶が日ごと に生気を吸い取ってしまうので、今日もまた新しい花を挿す。今日の花は華々しい赤をしている。 「……毒々しいですね」 その花を抜き取って新聞紙に包み、後で捨てに行こうと思う。毎日同じ花を買ってくるのは芸がないと感じたからこそ新しい花を買ってきたのだが、そういっ た気遣いとは元来無縁の人間なせいか、慣れない事をしても良い結果を出せないようだ。ルリは嘆息した。 「ユリカさん、起きていますか?」 ユリカは火星の後継者から救出されたあの日、旧クルーの顔をぐるりと見渡した後に魔法でもかけられたかのように眠ってしまった。そしてそのままだ。 「起きていませんね。でも、言っちゃいます。」 ちらちらと白く見え隠れするユリカの首元まで布団を引き上げる。 「ラピスさんがまだ、アキトさんで遊んでいます」 この病室では滅多に口に出されない"アキト"という言葉にも、何ら反応を示さない。つんと上を向いた唇、形の良い鼻、女性的なカーブで統一された睫毛。 それらは一定の間隔で上下するのみで、何をするでもなくただじっと見つめていたルリに言葉を与えることはなかった。 「そろそろ、止めさせなきゃ。あの子にも良くないし、何よりアキトさんに失礼です」 よし、とルリは気を引き締めた。 「なんだか愚痴ですね、すみません。聞いてくれてありがとうございました」 頭を下げる。 そのとき、決して広くはない病室をボソンジャンプの光が満たした。次いでルリの耳元に訪れるアスファルトを削る音に似た唸り声。 「――妖精ィイ!」 「っ、北辰!?」 北辰は先ずベッドに横になっているユリカの喉に手をかけた。不快音。ルリはその音にどこか既聴感を覚えた。あれはナデシコCが辺境地の偵察任務を終えて 期間中だったか、サブロウタが女性クルーの前で丸々一つの赤い林檎を片手の握力だけで砕いてみせたことがあった。力があるということは証明できたが、ブ リッジを果汁で酷く汚してしまい皆の顰蹙を買った。そのときの音に似ている。林檎の砕けた音。似ている。 天真爛漫な彼女に似合う大きな瞳を精一杯に開けてから、ユリカは口もまた大きく開けて血を吐いた。飛び散る血が周囲を汚す。白いシーツ、カーテン、フロ ア。全て鮮やかな赤色に変わった。 一つだけ、ルリの顔は醜い青色に変わった。 「あ、ユ、ユリカさ……ん?」 「貴様も糧となるがいい!」 ルリの視界を真っ赤な手のひらが覆ったとき、再び病室の全て、白と赤が青に染まった。 ボソンジャンプの光。 「……あれ? ミスマルユリカ、死んじゃったの?」 そこにはラピスとアキトがいた。 *** 北辰の手が目の前から消えたことで、ルリは保たれていた緊張がぷつりと切れてしまったことに気付いた。そのままにラピスを見る。 「わざわざ、来たんですか?」 「全部通じなかったから、病院だと思ったわ。北辰が脱獄したって、ここで会うとは思わなかったけど」 「私もそうですね。ここに来るなんて思ってなかった。 それより。腕、壊しちゃったんですか?」 ルリは先程からラピスが抱いて離さないアキトの手を指して言った。少し不自然なくらい、ラピスが大事そうに抱えていたからだ。 「昨日ちょっと引っ張っちゃった。ルリがあんなこと言うから」 「……そうですね、すみません。大事なお人形なのに」 「まだ意識はちょっとだけ残ってるんだよ」 「知っています。それがほとんど反射の域を出ないことも、知っています。ああ、」 ユリカさん。そう言ってルリはその場に崩れた。その様を一瞥してラピスはアキトの腕を一層強く抱いた。ラピスの不安を感じ取ったのだろうか。精巧な動き で彼女のふっくらとした白い頬を、アキトの無骨な指が撫で上げる。 「ふむ、人形と言うか」 「北辰っ!」 何を思ったか一歩引いて静観していた北辰が口を開く。ラピスは勢い良くそれに噛み付いた。彼女にとって北辰は、網膜の裏に焼きついた赤い義眼、醜い哂い 顔と併せて、今日までの最も憎むべきもののうちの一つだ。 「テンカワアキト、風の便りに死んだと聞いたから驚いてみれば、人形と言うか」 「そうよ。悪いの!?」 「……なに、悪いとは言わん。が」 まこと鬼娘よな。 そう言って北辰はラピスを哂った。ラピスはその笑みを見せつけられて激昂する。 「アキト、あいつ殺して! 早く!」 「わ、かっ、た」 *** ラピスに抱えられていない側、アキトの右の腕が跳ね上がる。手の中には一丁の拳銃。射線の歪みで眩惑を誘う動きで北辰の眉間を捉えた。この一瞬のぶれは 致命的だ。ラピスが慌てて飛びのいたとき、アキトの拳銃は拳ごと北辰に凪ぎ払われていた。 もげた手首が血を垂らし、転がりながら床に赤のラインを引いていく。左の腕はラピスが抱えたままで、瞬く間にアキトの両手が無くなってしまった。 「このまま達磨にしてくれようか?」 北辰が愉悦に笑う。腐っていたのか、汚臭を放つ黒ずんだ血が彼の手の甲を染めた。それを舐めとりまた笑う。 アキトは構わず、再び超然と手首から先の無くなった右腕を上げた。今度はそのまま振り落とす。その腕は北辰の米神を強かに打ちつけ、そこから骨を見せ る。 「アキトの腕は鈍器よ。骨なんかよりももっと固くできてるわ」 一歩引いたラピスが北辰を見返すように笑った。 「…ッ重畳なり! さぁ殺合おうではないか!」 北辰もまた腕を鈍器として振り上げた。 「あ……。いいんですか? アキトさん、壊れちゃいますよ」 延々と続いていた殴り合い。叩き合いだろうか。ルリは頭の中で、これは殺し合いかななんて呟きながら、終わりに近づいていたそれを横目にしてラピスに 言った。 破壊力だけ高い、そして身体は酷く脆いそのテンカワアキトは、向かい合う北辰の腕を削ぎ足を潰し、最早口元が歪むのみと言った身体に変えていたが、彼も また鏡で照らしたかと言わんばかりの風体をしていた。 ラピスは北辰が崩れ落ちる様を今まで凝視していた。そして彼奴が血を流す度に声を立てて笑っていた。しかし迂闊にも彼女は、己の人形が崩れていく様が視 界に入っていなかったのだ。 「……あっ」 随分と間抜けな声が出たな、と彼女は思った。 丁度テンカワアキトの首から肉が剥がれ落ち、剥き出しになってしまった骨がぽきりと折れたときのことだった。 *** 「ラピスさん。いい加減、止めません?」 ルリは赤子に語りかけるように、必死にアキトを掻き抱くラピスに言う。 眉間の先の空間を凝視したままラピスは、いやいやと言うように首を振った。毎回の事ではあったがまるで自分の言葉を聴いてくれない彼女に、今日ばかりは とルリが詰め寄る。 「アキトさんは死にました。帰ってきません」 「うるさい!」 そう吐き捨てて睨め付ける。そのとき力が篭ったのか、ラピスの腕の中でアキトの首は蛙に似た声を上げた。慌てて放し、優しく茶色の髪を撫でる。 「ルリはいいよ! あなたはアキトと写った写真を持ってる、アキトと暮らした思い出がある、かけてもらった言葉がある。 それに、アキトはいつもルリの事を想っていたわ!」 ラピスには何もない。 「私はっ、アキトの顔を、正面から見たことすらっ、ない、もの……」 復讐人テンカワアキトにとって、ラピス・ラズリは道具だった。己の望みを叶えるための手や足のうちの一つで、決して互いに顔をつきつけあって声をかけた り、思いやったりする存在ではなかった。 ラピスにはルリという存在そのものが、この上なく羨ましかった。 「だから、こうするしかない、の」 ラピスはその腕の中の、強い肉感を伴ったテンカワアキトの唇に自分のそれを強引に押し付けた。衝撃に耐え切れずアキトの爛れた下唇が剥がれ落ち、歯茎が あらわになる。 「私のアキトは、これしかいないの」 耐え切れず泣き出してしまったラピスの頭を、ルリはそっと撫でた。 *** あなたの顔とあなたの隣は、 私に傷跡を残していった。 けれども本当のあなたは見つからない。 本物のあなたは捕まえられない。 そして私は全てが麻痺している。 あなたの一部であったときから、 私は全てが麻痺している。 *** ラピス・ラズリはテンカワアキトに出会った瞬間、自分の全ては取るに足らぬものだが、彼の役に立つことで素敵な何かになれることを知った。 彼女はそのとき彼の中の一部になった。 ラピス・ラズリはテンカワアキトが死んでしまっているのに、彼の中の一部のはずの自分が動いていることが、この上なく不自然なことに気付いた。 彼女は自殺した。 *** [ 私があなたの一部であったときから ] |