使い魔が殺された日を思い出して、泣く事はもうない。
マチルダは一心不乱に筆を執る。
メイジにとって使い魔とは一生のものだ。勿論死ねば新たに召喚することも出来るが、最初に持つ使い魔はやはり特別であり、それらとの思い出のために再召喚を行えぬ者もいる。彼女もそうだ。
父と母の処刑に付して殺された。忘れ難い記憶だ。頭の片隅に重石のように構え、べたべたと赤で塗りたくられている部屋がある。最後の時、あいつは跡形もなかった。どんな形をしていて、どんなふうに動くのか、死体からは解らないほどに。けれど、脳はそれを自分勝手に補完する。生前に一緒した、関連する最も鮮明な、胸が弾む記憶の笑い顔を切り抜いて、その何がなんだかわからないはずの物体にはめ込み、悲痛な死相を作り上げる。
マチルダは使い魔が怖い。あれから何年も経ち、二十歳もとうに過ぎた。それでもやはり、もう一度召喚する勇気はない。
仕立屋が近頃の服の売れ行きを知るように、武器屋が近頃の剣の売れ行きを知るように、マチルダは治安の崩れを知っている。盗賊だからだ。
妹が心配で夜も眠れない。
使い魔が居れば、彼女の傍につけてやることが出来る。危機が迫ったら直ぐに飛んでいける。だが、マチルダは持っていない。自分の使い魔を遣ることが出来なかったから、違う方法を選んだ。
受取人以外に開封できないという、魔法の封筒を手に入れたのは幸運だった。
幼少のころに一度唱えたきりだったから、思い返すために暫し時間を要した。幸い職場の関係で、尋ねられる人は多くいた。
サモン・サーヴァントとコントラクト・サーヴァントの呪文は些か長く、肩が凝る。無心に書き綴る。それが悲しい別れをもたらさぬことを、寂しい妹の慰みになることを強く願った。
長々しい呪文に注意書きも加えると、便箋は結構な枚数になった。厳重に封をした。
どこか不恰好で小太りな封筒が、森のエルフを一匹訪ねて飛んでいく。
軟らかい夜の風を切り飛んでいく。
夜の空が硬く凍りついている。そこかしこから敵意が溢れている。月の光を受けて、木々の枝は道に影を落としていた。時折拓け、薄い葉が影でまだら模様を作り出す。
装飾あふれる赤い土の上を、男が歩いている。名はクロロ=ルシルフル。
擦り切れた外套の背には、十字架が足から吊るされている。
彼が森に入ってから、既に三日が過ぎていた。森の中、闇夜に紛れて眠りこける獲物を丸呑みする凶鳥が居る。それらの羽ばたく音に震え、訪れた朝に安堵した獲物を裂く猛獣が居る。クロロにとってそれらとの遭遇は死を意味する。一日中警戒も解けず、眠れぬ日が続いた。
道なりの道を逸れ、ただただ直進する旅は消耗が激しい。辿り着くためではなく、進むための旅だ。半月ほど前に戦闘の要である念能力を封じられた。直前に、必中の能力者によって命を占われていたから、それに従っている。紙切れは東へ進めと言う。
こうして東へ進んでいる。
ぎゃあぎゃあと、鳥の鳴く声が聞こえた。クロロは走り出す。
隙を見せてはいけなかった。歩みを止めるなど、息を潜めるなどもっての外だ。習性として寝ている生物を狙うため、活発に動いてみせるのが良いと麓で聞いた。しかし、それでも襲い来る群れはあるし、相手をするのは骨だ。事実連夜の闘争で体力が危ぶまれた。
それが理由だったのかは解らない。もしかしたら、東へと教唆する占いへの信頼がどこかにあったのかもしれない。
「これは……。そうか、これか」
クロロは懸命に走る間も愚直に東を向いていたから、真正面に突如現れた鏡に、不審よりも確信を抱いた。ここまでそうして来たように、東に向けて駆ける。真昼の光のような鏡に爪先が触れたとき、硬質の感触がないことに唇を吊り上げる。やはりこの先だ。一匙の躊躇いもなく、身を投げ入れる。
彼を飲み込んだ鏡はすぐさま掻き消え、やがてその場に現れた凶鳥たちが未練がましく直上を旋回していたが、暫しして他の獲物を探しに離れた。
薄く硬い、もっと言えば貧しい毛布の冷たさに身をよじる。クロロは目を覚ます。
狭い部屋のベッドに寝かされていた。窓が一つと、ベッドの他には小さなテーブル、そして椅子が二脚ある。寝室のようには思えないが、牢というわけでもない。小さな客間と言って差し支えないだろう。
耳が足音を拾った。誰かが近づいてきている。警戒はしたが、身構えはしなかった。現状には厚意を感じられたし、頑なに敵対しようという気も起きない。
「……あ、目が覚めました?」
扉を開けたのは、金の髪が目覚しい少女だった。成人のクロロと比べ幾分か小柄で、胸には洗濯物と思しきタオルケットを幾つか抱いている。
「ああ、目が覚めたよ。ありがとう」
他所向けの顔で礼をした。
少女はクロロの言葉に一度視線を落とし、再度上げ、それでもクロロの両眼までは行かずに口元を見つつ言った。
「私はティファニアです。ここはサウスゴータ地方のウエストウッド村よ。それから、ええと、私の耳が長いのは、母がエルフだから、です」
言い終わると、再び視線を落としてしまった。眼が左右にきょろきょろと慌しい。
クロロは己の記憶を浚ったが、サウスゴータ地方という地名は聞いた事がなかった。村の名を知らないからと疑ることはないが、地方と呼ばれる広さに心当たりがないのは拙い。
本当に異常な場所に導かれたのか、とクロロは考えた。エルフという部族にも心当たりはなかったが、そもそも未開の地であるなら十分在り得る。
「それで……それで、その。
あなたは私に使い魔として召喚されました。貴方が寝ている間にコントラクト・サーヴァントは済ませてしまっていて……。コントラクト・サーヴァントっていうのは魔法で、貴方を使役する権利を私に与えるものです。
強引でごめんなさい。わたしの使い魔になってください。お願いします」
警戒は既に遅いらしい。近頃その手の能力に縁があるな、とも思う。胸に刺された、律する小指の鎖(ジャッジメントチェーン)を除念するときを待つのが良い。
クロロは顎を引いて、小さく頷いた。
ティファニアはそれを受けて、安堵の息をついたようだった。露骨な敵愾心が湧かないのは、その契約の力だろうか。
再び視線を落としてから、ティファニアがあからさまに表情を崩して、風呂の用意をしてくると言った。そして軽くはにかんで部屋を出る。
最後の最後になるまで、ティファニアが腕に抱えた洗濯物の内側に、恐らくはカンニングペーパーの類があったことに気づかなかったこと。そして対話の中で、相手の出方を窺い頷くだけだったことにクロロは頭を抱えた。一言分も口を開かせて貰えない、手際の良さが相手にはあった。
マチルダ姉さんへ
手紙の通りにやってみて、なんとか成功しました。
契約をしてくれたのはクロロ=ルシルフルという人で、盗賊なのだそうです。
まだあまり話をしていないので、どんな人だか解りません。ですが、きっと良い人だと思います。
また連絡します。
ウエストウッド村は建築物が十、全て民家で、住民は全員がティファニアよりも年少の子供たちだ。十分あれば村を一回りできる。小さな切り株に腰かけて、一人の少女が彼女よりも小さい子らに絵本を読み聞かせているのを聞いていた。サウスゴータ地方で使われている文字は目に新しく、クロロはその絵本を読めない。会話は通じるのだから、然程時間を待たずに習得できるだろう。拙い手書きの絵本だが、この村の本は大半がそのようなものだった。
コートは脱いで、初めの日に部屋に吊るしている。木漏れ日が差し込む村は過ごしやすかった。箪笥の匂いが染み付いた、大人物のシャツを借りて着ている。下はぼけたスラックスのまま。そちらはなかった。ティファニアが、腰まわりの合う物を見つけてきて、半ズボンとして着てみてはと言ったが、クロロは遠慮した。
禍々しい額の刺青は白布で隠している。
「――。ロッシュは言いました。おれは大変なことをしてしまったぞ。宝がぬすまれたと知ったら、王さまはなんと思うだろう。
ロッシュはこうかいしました。こうかいしたので、王さまのところへ、ぬすんだ宝をかえしに行きました」
朗々と少女が読み上げる物語は、佳境に入っていた。控える子供らが唾を飲み込む音が聞こえる。クロロが身を乗り出しているのは、本を持つ少女の手に力が入りだし、文字が見えなくなったためで、物語の推移とは関係ない。
「王さまは、宝をかえしに来たロッシュのことを、しょうじきものと言って、ゆるしました。ロッシュは王さまのやさしさにぽろぽろ涙をながして、ぬすみをしなくなりました。
……はいっ、おしまいだよ」
クロロの他に、三人の子供が聞いていた。
「すごい、すごいね! ロッシュ、良かったね!」
一人の少女は話の中の、王か主人公か、あるいはその両方に甚く感銘を受けたようで、しきりに手を叩いている。
「うそ、ほんとは怒られたんじゃないかな。きっと見えないところで怒ったんだよ。お城にはいっぱい部屋があるんでしょ? わかんないじゃん」
少年はそう言っていたが、笑顔で言う彼は絵本に不満がなかったと解る。読み手の少女を困らせたいのだろう。
クロロはもう一人の、何も言わずに座っている少女を見た。彼女もクロロを見る。
「ねえ」
「どうした」
「ロッシュのごはんはどなったの?
お城から宝物を盗んじゃうくらい、ぺこぺこだったのに」
この絵本は、母が子に読み聞かせる物でも、国が民に言い聞かせる物でもなく、物語に憧れる子供が思い描くままに綴った物だった。良い話になり終わるが、著者も説明できないことが多くある。クロロは顎に指をかけた。
「確かに。盗人が正直者になっても、腹は膨れないが。
……そうだな。腹が膨れるよりも、正直者と呼ばれたかったんじゃないか?」
「それって、どうして? お腹がすいてたら、そんなの忘れちゃうはずなのに……」
少女は言い終わり、顔を伏せた。抱いていた人形で顔を覆い、クロロの視線を遮った。彼女の意を汲み空を仰ぐ。相変わらず快晴だった。
ウエストウッド村は、村自体が大きな孤児院である。そう言って良いと表現すべきだろうか。元々は普通の村だった。大人も居た。
昔は居たが、居なくなった。離れる者も居た、死んだ者もあった。いつの間にか、子供だけになっていた。
アルビオン王国サウスゴータ地方の、サウスウッド村は平和だ。しかし、サウスゴータには不穏の影が蔓延り、アルビオン王国では革命が始まった。人は死んだ。大人も子供も、ある者は死に、ある者は逃れ、幸運な一握りが争いを忘れたウエストウッド村に辿り着く。そこは平等ではなかった。子供は受け入れられたが、大人は例外なく追い返された。
生産能力のない子供、のみで構成された村だった。生産という行為は常に高々と煙を立てる。命を爛々と焚いて行われる。対して、消費は粛々と行われる。何かを生み出す事を捨てたために、ウエストウッド村は高い隠匿性を得た。
それでも人は訪れる。どこの土地も酷いからだ。こんなに長閑な村は他にない。子供たちは、皆が健やかで優しさを知っている。
だがやはり、村への道は厳しいのだ。その中には確かに、パンを盗む事が生きる事と直結する道も存在する。
ふとクロロが視線を地に落とすと、少女は静かに激高していた。
「お腹が減ったら、何も考えられなくなるのに――」
黙って顎を引き、少女の瞳を覗き込む。揺れている、怒りも悲しみもあったが、強い疑問が黒い球を占めていた。
クロロは言った。
「考えられなくなるほど、腹が減ってなかったんだろう」
何も考えられなくなることを、知らなかったんだと、言った。
マチルダは取る物も取り敢えずウエストウッド村へと向かっていた。内乱による動きが収拾する前であったのは幸運だった。空の国に乗り上がる傭兵たちの足が途絶える頃には、定期船も自粛を始めるからだ。しかし、どれだけ急いでも胸のざわめきは治まらない。
ティファニアが召喚した使い魔は人間で、しかも不遇な事に盗賊であるらしい。
治安の悪化による不幸を警戒して勧めたはずだった。こんな形で裏目に出るとは予想だにしなかった。マチルダ自身の行いで村に不穏を招くことは出来なかったから、馬は使わずに駆ける。
やがて視界に入りだしたウエストウッド村の家々が、変わらず窓から明かりを漏らしていることに安堵した。
真っ先にティファニアの家を目指す。中から声が漏れている。
暖かい日差しも夜が来る度に掻き消える。代わりに火を点す時間帯になっていた。質素だが味わい深い夕食を終え、ティファニアがクロロに小言を漏らす。
「あの……。そのう、子供たちに、おかしな事を教えないでください」
彼女の萎縮した態度にクロロは、もっと毅然と言ってくれて構わないのに、と思った。サモン・サーヴァントやコントラクト・サーヴァントの事後承諾を迫りにきた時と比べ、随分と果かない。
「それは、盗みや食事の話か」
「うん、そう。それって良くないことよ」
「極々当然の事じゃないか? 食べなければ生きていけないときもある。
それを否定するのは……なんだろうな。いや、否定するのは構わないか」
椅子に深く座り、体は前に傾ける。両腕を膝に掛けた。
「ティファニア」
「なあに?」
「物の価値は、どうやって測るのが良いだろうか」
長い耳を僅かに揺らして、問いかけられた彼女は首を傾げる。制限時間はないが、静かに座るクロロを待たせたくはない。
「測れるものは、お金で測れると思う。でも、測れないものがあるわ。思い出とか、気持ちとか、目に見えないものと一つになってるもの」
持ち主によって価値は変わる。クロロが、ティファニアを継いで言う。
「直接食べる、活動の動機になる、所持することで思いに浸る、そういう様々な物があるが、目的は一つだ。『持ち主を生かす』こと。
物の価値は、『どれだけ持ち主の生を担っているか』に定義してみるとどうなる」
良く解らない、とティファニアは首を左右に振った。クロロは続けた。
「そうだな……。貧しい木こりが居る。とても宝とは呼べない斧を一本だけ持っている。
一方で沢山の宝を持つ貴族が居る。持ち物はどれも有数の宝だ。こいつは百の宝を持っているとしよう。
ところで、その有数の百の宝ののうちの一つだが……」
その宝の価値は、木こりの斧一本の百分の一しかないのだと、クロロは言った。
「おかしな考え方ね」
ティファニアはころころと笑った。クロロも、まったくその通りだと頷いたが、坦々と話を進める。
「その百分の一の価値しかない宝を盗み出した盗賊が、その日の食事も満足に取れない浮浪児三十人に与えたらどうだ?
宝を金に変えると、三十人分の食料になる」
「あ、解ったわ。価値が変わっちゃう。
木こりの家にある斧が一で、その宝物は貴族の家にあったときが百分の一なんでしょう? 今は三十人の食事だから、ええと、そうだ。三千倍かなあ。
とにかくすっごく価値のある物になるわ」
「貴族の家では百分の一しか価値のないものを盗んで、三十の価値になる場所へ持っていく。そんな盗賊も居る」
「なんだか、良い人みたい。クロロさんもそうなの?」
「……いや、オレはそういうことはしないよ」
やがて、話をはぐらかされたことに気づいたティファニアが小さく声を上げ、唇を尖らせた。クロロは笑い、話を切り上げた。ティファニアはそろそろ、子供たちの相手をしなければならない。
「そろそろ居間に戻りましょう。今日はお菓子もあるんです」
部屋の火が消され、外に漏れていた明かりが散っていった。
村の隅々まで月明かりが差し込みだす。
明かりが消えた窓の下で、子供のように、土くれのフーケが嗚咽を殺している。
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