ゼロのそこにある壁


ゼロのそこにある壁



 一晩悩み抜いてから、ルイズは満足気に頷いた。 
「名前は、バリバリがいいわね」 
 なんせ鳴き声がそれだ。安直だし今まで避けていたのだけれど、と彼女は首を傾けたが、そう呼んだときこの使い魔は呑気な顔、楽しそうな顔をしていた。多分これで良いのだろう。 
 使い魔の表情がわかるというのも妙な感覚だったが、これはメイジの全てが初めて使い魔を持ったときに経験するものだという。 
 ちっぽけなことだったが、一般的なメイジの領域に一歩足を踏み入れた気分になった。ルイズは自然と緩む口元をなんとか抑える。 
 同時にしかし、とも思う。 
「ヴァリエール様、言いつけのあった紅茶をお持ちしました……。あら? 使い魔様は随分とご機嫌でいらっしゃいますね」 
 困ったことにこの使い魔の表情、実に解りやすいのだ。とても人に姿形をしているからだろう。二足歩行でところどころに知性を見せる使い魔を喚んだことは確かに誇らしいが、少し召喚主の特権が侵害されたようで少し嫌な気分になる。 
「ええ、そうね。さっき名前をつけてあげたの。人間の言葉がわかるのかしら」 
「聡明な使い魔様ですのね、ええと、ヴァリエール様にはとてもお似合いで」 
「あら、無理しなくていいのよ? 知ってるわ。私が貴女たちにもこっそりゼロって呼ばれてること」 
 器用にも一瞬で顔中から血の気を失った壮年のメイドのさまを見て、面倒そうに手を振った。 
「気にしなくていいわ。その通りだもの」 
 でも、とルイズは付け加えた。 
「やっと一つ魔法を成功させたわけだし、これからは上手くいくと思うの。 
 あなたもそう思わないかしら?」 
「……ええ、ええ! 勿論ですとも!」 
 運の良いことに、この気難しい貴族のご令嬢は機嫌が良いらしい。メイドは必死になってルイズの言葉に追従した。 
「そうよ。この子はとても素敵な使い魔だわ。 
 紅茶ありがとう。カップは後で取りにこさせるから、貴女はもう下がっていいわよ」 
 自室の扉の前で一度、大きく頭を下げて退室するメイドをなんとなく眺めてから、ルイズは己の使い魔に向き合った。 
「不思議ね。あなたを見てると、なんだかわくわくしてくるのよ。 
 小さかったころに戻ってしまったみたい。 
 そういえば、昔にデラルテが王都を訪れたとき、姫様にご一緒させていただいたあのときの気分に似てるわ。 
 本当にわくわくするの。なんでかしら?」 
 不思議ね。もう一度呟いてから。首をかしげる使い魔の手を取った。 
 人ではないし、幻獣でもない。その中間なのだが、亜人でもない。見せる仕草は極めて人に近いが、風体はどちらかというと幻獣寄りだ。 
 胴のみが白く、四肢の付け根と腹部に赤いふくらみ。見ようによっては服を着ているようにも見える。腕と足が人間の肌の色だからだ。そして耳の変わりに小ぶりな羽。 
 本当に不思議な使い魔。ルイズはティーカップを空にすると、使い魔を連れて教室へ向かうため、部屋を出た。 



 部屋から出て真っ先にルイズが思ったのは、先程のメイドへの罪悪感だった。部屋に戻って窓の外を覗いてみれば丁度明け方だ。 
 こんな時間に起きているのは保健室に水系統の得意な三年生が一人(それも奨学金も貰えないドットかライン)と学院の各所で当直をしている教師くらいで、突然ベルの鳴ったメイドは身だしなみを整えるだけでも大変だったろう。 
 後でヴァリエール家からなんらかの補償でも出してやるべきだろうか。ルイズは今回のことでどの位、あのメイドは不快な思いをしただろうか、なんて考えながら、自分の小遣いの残りがどの程度だったか思い出す。 
 それで貴族の体面を保てるだろうか。そう考えてから少し嫌な気分になった。自分がどうしようもない俗物に陥ったような気持ちを覚えたからで、彼女はひとまず考えることを止めて授業に出ることにした。 
 そしてルイズは、部屋から出て鉢合わせする同級生の赤髪に、今の時間には教室ではなく食堂に向かうべき時間であることを思い出すのだった。 



 ルイズが貴族の子女としてあるまじき素早さをもって朝食を片付け、使い魔の手を引いて教室へ向かったことには訳がある。 
 魔法を試してみたかったのだ。 
 使い魔の召喚は幾度もの失敗のすえにだが成功したし、契約に至ってはなんと一度で成功した。 
 今までの自分ではない。今ここに居るのは、昨日までの自分とは違う魔法の使えるルイズだ。彼女はこれを皮切りに全ての魔法が使えるようになると信じて疑わなかった。 
 知識は豊富にあるのだ。そして昨日体験したばかりの実感がある。一晩を通して必死にコントラクト・サーヴァントを成功させた瞬間の感覚を想起した。何度も、何度も。 
 早く魔法を使ってみたくて仕方がなかった。 
 ルイズには見えた。そこには朝一番の授業の最初の実技で、高々と杖を挙げる自分に驚く教師と生徒がいた。 
 口々に危険だ、止めた方が良いと言う彼らに私はこう言おう。 
「今日からのルイズ・フランソワーズは一味違うのだ」 
 本当にわくわくする。早く、早く教室へ行こう。 
 ルイズはしっかりと使い魔の手を握りしめた。 






「さて、皆さんには土系統の基本、錬金を覚えてもらいます。 
 錬金は基本でありながら最も応用の広い魔法です。先ず、私が手本を見せますので、次に皆さんの中から誰か……」 
「はい! 私にやらせてください」 
 ミセス・シュヴルーズは二年生と三年生の授業を長年受け持ってきた教師だ。そして彼女は自分の最初の授業では必ず生徒に錬金をやらせる。これははっきり言って使い魔を召喚したばかりの貴族の子女の興味を惹くことができるような内容の授業ではない。 
「あらあら。意欲的で大変結構ですね、ミス・ヴァリエール。 
 では、貴女に錬金をしてもらいましょうか」 
 文字通りただ杖を振るように気軽に杖を振り、シュヴルーズはねずみ色の石片を真鍮に変えてみせた。ふくよかな外見に似合わずそれは優雅で洗練されたものだ。 
 いつか彼女のように滑らかに魔法を使いこなしてみたい。そのいつかのために、今は不恰好でも魔法を成功させてみよう。ルイズは意気揚々と立ち上がった。 
「そのっ、ミセス・シュヴルーズ、危険です!」 
「うるさいわね、大丈夫よ」 
 半ば予想していた横槍に、出来の悪い子供を諭すようにルイズは言う。彼ら彼女らの危惧も解る。しかし、私の隣に立つ使い魔を見るが良い。もうルイズ・フランソワーズは失敗などしないのだ。 
「錬金したい金属を、強く心に思い浮かべるのです」 
 シュヴルーズの指導を耳を通して頭に叩き込む。あのときの手応えを思い出せ、再現しろ。 
 強く強く、金属を思い浮かべるのだ。 
 ルイズは力強く杖を振り下ろす。素晴らしい速度で空を切ったそれは、時間を止めるようにぴたりと石の上で静止した。姿を変える一瞬を晒すことを厭うように、石は一度大きく光で自身を包む。 
 そしてその光は収まらぬままに荒れ狂い暴発した。 
「だから言ったのよ。あいつにやらせるなって!」 
「もうヴァリエールは退学にしてくれよ!」 
 ああ、この衝撃は知っている。失敗だ。 
 ルイズは悟った。そして泣き崩れるように気絶した。 



 目を覚ますと、そこは一年ほど慣れ親しんだ自分の部屋だった。重々しく四方を囲む壁も、しっかりと根をはる様に鎮座する家具も、自分のものだ。 
 ああ、徹夜明けの頭がショックで気絶したのか。ルイズは思った。同時に自分が、深く澹い森野中に置き去りにされたように思った。 
 そんなことを思うはずがない。ばかばかしい。ルイズは笑う。ここは自分の部屋のはずだ。全て、自分がが実家から持ってきたインテリアで固めた。ここはルイズ・フランソワーズの部屋。 
 学院の中で唯一、自分だけのために与えられた部屋だ。 
「そうよ、ここは私の部屋。怖がることなんてないわ。唯一、学院から私に与えられた…。 
 生徒に与える寮の部屋よ」 
 それは違う。 
 ここは、学院が"メイジ"に与える部屋だ。 



「え…・・・。嫌っ! いや……嫌よ! 
 やだ、やだやだやだ……」 
 抱きかかえていた枕を、扉に向けて思い切り投げつけた。扉が嫌だったのではなく、自分の近くに自分以外のものがあることが嫌だった。 
 空の下に、服もなしに放り捨てられる感覚と言えば良いのだろうか。良く解らない。本当に良く解らない。ルイズは泣いた。 
 がさり、と物音がする。ルイズはびくりと慄いた。 
「あ……。バリバリ! ねぇ、あなたは私の使い魔? 
 そう、そうよね。あなたが居るわ。大丈夫、大丈夫よ、ルイズ・フランソワーズ。 
 ちいねえさまと約束したじゃないの、沢山勉強して、立派なメイジになるって」 
 しかし、とルイズはベッドから降りた。 
「でも、怖いのよ。怖いわ……。今日から、本当に上手くいくと思ったの。やっと手応えを掴んだのよ。 
 これで駄目なら、私、もう、どうしたら良いか」 
 バリバリは表情から笑みを絶やさない。ただ、ルイズの傍に立って普段どおりに動き回るだけだ。 
 けれど、そのときは少しだけ違った。一際大きな鳴き声で、ルイズの興味を惹いてみせる。そして、ぺたり、とその使い魔は宙に手を貼り付けた。 
「バリバリ……? 何を、いえ、私……それ、知ってるわ。知ってる。パントマイムよね。 
 前に一度、城下で見たことあるもの」 
 魅せるためのパントマイムではない、ルイズにはそれが直ぐに解った。使い魔は、ルイズに背を向けてマイムをしているのだ。 
 ルイズの疑問を余所に、バリバリは少しずつ壁を表現する。丁寧に、しかしルイズに見せるように。自分の背中を見せるように。 
 ぺたり、ぺたり。ぺたり、ぺたり。指の張り付く音が聞こえる。ルイズは恐る恐る手を伸ばした。ひたりという感触があった。 
 ある。 
「あなた、もしかして。壁を作ってるの?」 
 脅えている私を、守るために。 
 ルイズはじわりと体中が熱くなるのを感じた。こんなところに、味方が居た。 
「あなたって、本当、素敵な使い魔ね……」 
 その日ルイズは、ぎゅっと己の使い魔を抱きしめて、床の上、見えない壁で囲まれたその狭い"自分の城"で猫のように蹲り、眠った。 
 明日からのルイズ・フランソワーズは、きっと使い魔に負けないくらい素敵なメイジだ。 






 二年生、使い魔の品評会のため、トリステイン魔法学院を訪れたアンリエッタ王女は、昨晩の幼馴染との会話を思い出していた。最後に思い出す幼馴染のルイズの顔は、魔法が使えない、そう言ってくしゃくしゃに崩した泣き顔だった。 
 けれども、昨晩久方ぶりに会ったルイズは違った。まるで自分を置いて、一足先に大人にでもなってしまったかのように、力強い瞳をしていたのだ。アンリエッタは、それに自分が憧憬を浮かべたことを自覚しつつ、今日この席に座っている。 
 ステージでは、ルイズの名前が呼ばれている。この場に居ないようだ。アンリエッタは思わず気を揉んでしまう自分を制した。王女として出席している以上、贔屓には気をつけるべきだ。 
「ルイズ・フランソワーズ! 早くステージへ……」 
「ただいま参りました」 
 アンリエッタは彼女の滲み出る自信を表すかのようにつりあがる唇を見て、浮きかけた腰を下ろした。今日の優勝はきっと、彼女だ。 



「ちっ……。ついてないねぇ。ついてない」 
 ルイズは、ロマリア製の大皿を送ってから、毎朝私的に紅茶を淹れにやってくる壮年のメイドと談笑していた自分に後悔した。品評会へ遅刻しそうなことも理由の一つだったが、一人の女に遭遇したこともそうだ。メイジで、拳を振り上げたゴーレムに乗っている。 
「あなた、盗賊? そこって宝物庫でしょう。私知ってるわよ」 
「言い逃れもさせてくれないのかい、貴族のお嬢ちゃんは。賢くない、賢くないね」 
「お互い見てみぬ振りをする方が、私の命がってことよね。思い上がりも程ほどにするのね。私はルイズ・フランソワーズよ」 
 ヴァリエール公爵家の三女は、こそ泥を見逃す目など持っておりませんもの。 
 ルイズはそう言って一礼した。品評会のために卸したばかりのスカートが、すらっと風に吹かれて揺れた。 
「そうかい! じゃあ、さよならだよ!」 
 ルイズは思考を切り替える。犯罪を未然に発見できたことを良いことだと思うことにする。それに、自分と使い魔が居れば、あんなゴーレムなどとるに足らないものだ。 
「バリバリ、やって頂戴」 
 主の声に呼応して、細腕の使い魔はゴーレムの前に飛び出た。 
 振り下ろされるゴーレムの腕は力強い。盗賊、土くれのフーケは一瞬後に潰れる少女と彼女よりも背の低い使い魔の姿を想像して疑わなかった。 
 "ひかりのかべ" 
  空気を固めてそこに壁を生み出す。 
「よし、あなたの好きなようにやって頂戴!」 
 ゴーレムの拳の下で、少女の勇ましい声が聞こえる。その溌溂とした声からは、一切のダメージを感じられない。拳が下まで降りきらない。おかしい。 
「は? なんだあの使い魔……。妙なポーズを」 
 "ヨガのポーズ" 
  命中率を上げる。 
 バリバリは唖然とするフーケを前にしたまま、その不思議なポーズを止めると、くるりと後ろを振り返ってルイズとハイタッチをした。 
 "バトンタッチ" 
  上昇した能力値を次のメンバーに引き継ぐ。 
 一歩下がった使い魔の代わりに、前に出たルイズは(下品だが)舌なめずりをした。あのゴーレムは脅威でもなんでもない、獲物だ。ここからは理詰めになる。 
「ファイアボール、吹き飛びなさいっ!」 
 酷い轟音がフーケの耳を打った。突如湧き上がる風圧に、痺れる。煙が晴れれば、ゴーレムの右足が吹き飛んでいる。拙い、倒れる。 
「ちょ……、ちょっと待て! なんだってんだい本当に。"錬金"っ!」 
 土をかき集め、補完する。なんとか体勢を立て直したフーケは、怒りのままに邪魔な二匹を討ってやるため、ゴーレムの右腕に先ほどの倍の質量の土を集めることにした。すぐさま杖を振り上げる。 
 そこで気付いた。なにやら女生徒と使い魔の前後が入れ替わっている。またあの使い魔か。何をやったか知らないが、今度は二倍の拳を叩き込んでやる。 
 そのとき場違いにも、使い魔の口から笛に似た、甲高い音が響いた。 
 そして足で地面を鳴らし、両腕を頭の上に掲げて手のひらを叩き、そしてまた口笛を吹く。あれはフーケにも何をやっているのか解った。スタンディングオベーションである。 
「馬鹿にしてくれるね…! "錬金"、"錬金"…っ」 
 "アンコール" 
  相手は直前に使った技を同じ技を繰り返してしまう。 
「足じゃない、足じゃないんだって……くそっ。何がどうなってるのさ!」 
 フーケの行使した"錬金"は、悉く先ほど補完したばかりの足に土を集めた。次第に肥大化し、バランスの取れなくなったゴーレムは横に傾き始める。フーケは畜生、と一度悪態をついてから、ゴーレムから飛び降りた。 
 そして倒壊するゴーレムの煙が晴れたとき、目の前に現れたその使い魔の数に唖然とした。 
「……遍在? 使い魔が?」 
「驚いたかしら? "かげぶんしん"、って、言うのよ」 
 相対している相手に技の説明をされる、ということがこれほどの屈辱を与えるとは。フーケは唇を噛み千切ってしまいそうな興奮を必死に抑え付ける。小娘が、まだ何かやろうとしている。 
 今から、なんとか、時間を稼いで、ゴーレムを、大きな、ゴーレムを。 
「それでね、これで終わりよ。盗賊のあなたには申し訳ないって思うわ。 
 でも、私の使い魔の素晴らしさ、あなたにもわかってもらえると思う」 
 そして、確定した勝利を祝うようにその少女と使い魔はお互いに片手を高く掲げ、"バトンタッチ"をした。 
 二十に遍在した少女が、あの冗談じゃない威力のファイアボールを悠々と唱え始めたとき、フーケは、ああ、終わった。そう思った。 






「本日おいでの皆様、パントマイムはご存知でいらっしゃいますか? 
 ええ、ええ。そうね。彼らの芸術は私たちの心をとてもわくわくとさせてくれますの」 
 ルイズは普段の彼女からは考えられないような、芝居がかった口調で審査員席の貴族に語りかける。 
「ドゥルクー?マルセル?ジャンも素敵ね。 
 彼らの素敵なパントマイムのために、屋敷の主と同じ分だけ豪勢な食事をもう一人分用意させたことのある方も多いのではないかしら。 
 でもね、私は知っているのよ。 
 彼らの芸は嘘っぱちだわ」 
 そんなことは知っている、何を当たり前のことを。そう毒づく貴族も居れば、熱心なファンなのか小娘が何をと憤慨する貴族も居た。 
 僅かに濁り始めた審査員席の真ん中でアンリエッタが小さな手を降って貴族たちの不満を吐く口を閉じるよう言う。アンリエッタの視線は、童女のように次の言葉が言いたくてうずうずとしている、幼なじみの彼女に注がれていた。 
 さあ、ルイズ。あなたは私に何を見せてくれるのかしら。アンリエッタは心の中でルイズに問いかける。 
 ルイズはその問いに答えるように、一段と熱の籠もった声を上げた。 
「ところで、本日はみなさまにわたくしの自慢の使い魔を紹介したく存じます。 
 素敵な使い魔です。名前はバリバリ」 
 そこでルイズは一旦言葉を切る。そして、同性のアンリエッタがはっとするほど魅力的に笑って言った。 
「種族は、パントマイミストです」 



 ぺたぺたとあたかもそこに壁があるかのように、バリバリはステージを四角に一周した。剽軽な仕草が会場の笑いを誘う。 
「ご覧になりました?バリバリはたった今、部屋を一つ作ってしまいました。どこからも入ることはできません」 
 ルイズは(はしたない仕草と知りつつも)右の腕をまくってみせる。そして思い切り力をこめるように、その"壁が有るはずの場所"を思いっきり押す動作をしてみせた。 
 ヴァリエールの三女が突然見せた行儀の欠けるポーズに一瞬、会場は唖然とする。いや、決して少なくない数の男性の視線が、彼女の見せた白い二の腕に集まってもいたようだったが。彼女はそんなことは構わない、と楽しそうに使い魔の披露を続けた。 
「さて、一つ困ったことが起こりました。どうしましょう! このままでは部屋の中に入ることができません。 
 当たり前ですよね。四方が壁では開くドアが有りませんもの。 
 ……さて、開かないドアの開け方。みなさまはご存知?」 
 押す?それとも引く?あと横に動かないかどうか試してみるのも大切ね。 
 ルイズは審査員席に座る"高貴な方々"に向かっておどけて見せた。 
 道化師然とした(こんなに淑女から外れた)行為は生まれてこの方したことがない。けれど、難しいことではなかった。 
 ただこの左胸の奥で弾んでまわる嬉しさと自慢の使い魔の素晴らしさを、この場に集まった全ての人間に伝えてやれば良いのだ。 
 それはルイズにとって本当に簡単なことだった。 
「開かないドアの開け方、みなさまはご存知だわ。だって中にはあの子が居るんですもの」 
 彼女はそして、壁を軽く二回だけ、こんこんとノックした。 
 その仕草を見たバリバリは、すぐさまルイズの近くまでやってきた。 
 それは良く訓練された使い魔の動きで、ヴァリエールの三女がやってみせたノックのパントマイムで生じた音の出どころを探っていた審査員たちもその使い魔の評価を上げた。そして次の動作を見て更に評価を上げることになった。 
 バリバリがこれまでとは違うパフォーマンスを見せた。あたかもノックされた場所にドアが、そこにドアノブがあるかのように手首を回し、そしてドアを開ける仕草をすると主人を迎え入れるように頭を下げて見せたのだ。 
 あの使い魔には明らかに高い知性が宿っている。 
 ルイズは驚愕に話し声の消え去ったステージの上で、上機嫌に笑顔を浮かべ続けた。 
「ありがとう、バリバリ。ところでちょっと足が疲れてしまったみたい。どこかに座る場所なないかしら?」 
 ここに、椅子が、あります。こちらに、どうぞ。 
 バリバリは動作だけで全てを語ってみせる。ステージは既に、二人の独断場となっていた。 
 そこに椅子が有ることを示して見せたバリバリは、当然のように淑女のために椅子を引く動作を見せた。ここでルイズの雰囲気ががらりと変わる。 
 そこにいたのは客寄せの平民女ではなく、ヴァリエール公爵家が三女、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールであった。 
「ありがとう」 
 ゆったりとした動作で自然と椅子に納まる様は貴婦人さながらで、何もないはずのそこを優雅なバルコニーと錯覚させる。 
「どなたかいらっしゃいませんか?」 
 可愛らしい貴婦人はそう言って審査員席から人を誘う。一人、意を決したように荘厳な男性が立ち上がった。ヴァリエール家に親しい家の代表だった。これ以上世話になっている家の娘に見世物をやらせるわけにはいかない、と思ったのだろう。 
 彼は失礼、そう言って先ほどルイズが部屋の中へ入って見せた場所の前に立ち、中段に手を掲げ、ノブを回す仕草をし、即席のパントマイムが上手く見えているかどうか内心で冷や汗を掻きながら一歩踏み出した。 
「痛……っ。……まさか……!?」 
「そこじゃないわ。もう一歩右よ。そう、それから、王宮の南の一番大きなティールームはご存知? 
 そこのドアと同じ形でデザインしてもらったの」 
 男は半信半疑で(しかし額の痛みが耳元で囁いている)横に一歩ずれ、そしてティールームを思い出して手を伸ばした。そういえば、先ほどドアが出来る前にルイズはドアを手の甲でノックしたが、もしかして今なら。 
「ドアノッカーがある……。同じ、形?」 
「ええ、ようこそ」 
 バリバリが丁寧に家具をマイムしていく。そこに椅子があり、戸棚があり、テーブル、肘掛、順々に出来上がっていく。 
 ルイズはさながらホステス(女主人)のように、男のために一度立ち上がって、椅子を引き肩を叩いた。 
「即席で申し訳ありませんけれど、快適さは王宮のそれと並べて保障します。 
 青空の下で優雅にティータイムなどいかがかしら」 
 その日の一位は、手のひらだけで優雅さと"気品"を表現した使い魔に決まった。 



 二代目のブリミルが幼少の頃、魔法の才に欠ける落ちこぼれであったことは良く知られている。 
 その魔法の使えない貴族の少女は、のくだりで始まる物語があり、彼女はその物語の主役を務めた。 
 しかし、この少女は幸福なメイジだった。 



 六千年の歴史書を経て史実に現れる二代目のブリミルの使い魔は、最高の盾として広く名を残した。 
 その使い魔は指先で空気を自在に操り、見えない世界を築き上げたという。 
 遅れて大成した主、二代目のブリミルに関する記述は、トリステインが伝える歴史書の中で頻繁に見かける。ここに一つ挙げよう。 

 私の優秀な使い魔はどんなとき、どんな場所でも、剣から私を守り、魔法から私を守り、そしてありとあらゆる罵声から私を守ってくれた。 
 私はそれに応えただけ。 
 そう言って笑う彼女は、国中の男という男を魅了するほどに、魅力的だったという。 



 ゼロのそこにある壁 了