本のない国 はじまり


 ステイツ国の絢爛な謁見の間は、詩人のうたの中でのみ生きる大勇者、大賢者の誰の耳よりも高いと言われる二本の柱が支えている。王の娘である私でさえ触れること適わぬその二柱は、毎日特別に許された専門の者たちに磨かれ、石とは思えぬ白い肌にはくもり一つない。彼女らは、なるほど王座の脇に控えるだけあると、思わず頷かせる程には無慈悲で、しばし肌磨きのための足場から半歩踏みでた掃除夫を、遥かな高みから地へと突き落とす。私が生まれてからの二百年間で、正確な数は分からないが、五十人は死んだのではないかと思う。
 四方を海に囲まれたこの国の中央には、偉大なる山(グレートマウンテン)があり、王の居城はその頂上にある。私が生まれて幾許もないころ、ここは偉大なる丘(グレートヒル)と呼ばれていたが、無上の王の権威を示すには不足あると判断されたのか、名を替えた。民や、私の三人の兄たちも、偉大なる丘という呼称は既に忘れている。
 改名後に私の生まれて初めての世話役が、王の前で誤って丘と呼び死刑になっていなければ、きっと私も覚えてはいなかっただろう。とにかく、ステイツ国の中央にはとても高い山があり、その頂上に王城はある。
 頂上からは四筋の川が流れ、それが国を四つに分けている。
 普段の王城は静謐が美徳とされ、彩りに欠ける風体だが、王の千六百歳の誕生日を控えているため少々喧しい。貢物を持った民達が、その四筋の川の傍の道を登り、また降りて行くのだ。
 後に私が引き合わされる、貧相な体つきで、珍しいことにとんでもなく耳が短い黒目黒髪の男もまた、そのとき貢物の中に混じって王城へとやってきたのだ。彼はそのころ、頑強に作られた檻の中にいて、夜の間に持ってこられた他の貢物などと共に、城の前に積み上げられていたのだ。後々に本人から聞いた。
 閉ざされた城門の近くには見張番の兵士が何人も立っていて、二人につき一人の割合でたいまつを掲げていた。私にとって、夜とは付きの者に、彼女らが特別に口頭で伝承する英雄譚をねだったり、子守唄を歌って貰ったりする時間だったので、謁見の間の巨大な窓からちっぽけな兵士達が闊歩しているのが見えたとき、彼らが夜も寝ずに働いていることを知ったときは、心底驚いた。その驚きを大きさで表すことはできないが、例えていうなら、後に貢物の男が持ってきた、絵本というものを読む夜の楽しさを知ったときに次ぐほどだろうか。
 謁見の間に炎はなく、月光を受けた二本の白柱だけが、薄らぼんやりと王座を照らしていた。

 私が三人の兄たちと共に父、つまりは王に集められたのは、彼の誕生祭を明日に控えた晩のことだった。父は寡黙な人で、昼間に謁見があるときは大抵傍に控える大臣が口火を切っていたから、私たちは暫くの間、無言で彼の前に立っていた。
 次兄は非常に気が短く、恐らくはこの不可思議な集まりを早く終わらせ寝たいと思っていて、ちらちらと、何度も長兄に視線をやっていた。次兄の彼が一番に口を開くのは不自然だし、なにより無礼だったからだ。長兄は次兄となかなか親しかったが、第一王子にそぐう振る舞い、という無形のものをとみに気にする性分だったので、次兄の目配せにも即座には応じなかった。
 長兄が長兄なりの基準で、余裕ある態度である、と判断する頃合の時間が経った後、彼は父に尋ねた。
「国王様、本日はどういったご用向きでしょうか」
 またいくらかの時が流れた。そのときの父は、とうに心は決まっているが、私たちに伝えるのは何とも躊躇われる、といったふうで、私は、そんなに大事なら私や三兄はともかく、上の二人の兄に伝えて事が起こったら大変と考えているに違いない、と思った。
 次兄は剣を振り回すことが好きで、少しばかり騒動屋の気があった。長兄はどんな事でも弟に負けてはならないと思っていた感じがあって(そのくせ剣の腕は誰が見ても分かるほど次兄に劣っていたが)、次兄や三兄、私などが何か騒動を起こしたときは、三日と経たぬうちに必ず更に大きな騒動を起こしていた。
 やがて父は踏ん切りがついたようだった。
「先ず、私が治める地を、領を、このグレートマウンテンに座する王城の、城壁の中のみとする。王城のみとする」
 私は驚きの余り悲鳴を上げそこなった。私の悲鳴の代わりに、長兄が慌しく質問した。
「それでは島のほとんどを手放すことになります! 麦畑や民はどうなるのです、大ステイツ国はどうなるのです!?」
 どうでも良いことだが、普段から長兄は国の名の前に大をつけたがる。
 父は彼の焦燥に付き合うことなく続けた。
「四国に分ける」
「分けてどうするのです!?」
「四国に分けて、お前達に統治させる」
「……それはっ!」
 兄の声はどんどん悲鳴に近づいていった。それに換わり、私のざわめいた気持ちはすとんと落ち着いてしまった。言葉の意味が良く分からなかったのだ。
「私の誕生日のため、貢物が集まっておる。それを全てお前達にやる。四人で話し合って分け、それを持ち国を治めよ」
 この日の晩、私は意外と冴えていた。つまりは、ステイツ国の四分の一が、私の国、ユリィの国となるのだ。それからどうやら、父への貢物のうち、兄たちが要らないと残していった分だけの、珍しいが見栄えの良くない宝が貰えるらしい。ドレスや宝石も欲しいが、これはどうしようもない。長兄と三兄がそれぞれを好いている。どれだけねだっても、私の分は残らないに違いなかった。
 父は、王城からどれだけ人を連れて行っても良いか、など細々した点まで話した後、私たちに解散を命じた。





 王城には、三賢群と呼ばれる賢者の住む区画があって、住処を北、東、西に構えている。それぞれ、北賢者が伝えし至高の叡智、東賢者の同じ、西賢者の同じと呼ばれる口伝を何万年もの間、伝えてきたという。部屋は分厚い扉で締め切られていて、何度も何度もその口伝を繰り返し言葉にし、後裔者に教え込む。そうして、一人前になると彼らは、時の王の傍に控えて、彼らが伝えし至高の叡智の中から、時と場合に応じた知恵を選び授ける。
 王の子供はそれぞれ城の四方の一角が与えられていて、長兄が北、次兄が東、三兄が西、私が南である。南は女人区といって、基本的に男性は居ない。賢者も居ない。
「賢者に友達なんていないよ。どうしよう」
 王の誕生祭は一日中行われるが、私や兄たちが顔を出すのは夜のパーティのみだ。なので、日が昇りきる前はこうして侍女と話をする時間があった。
「でも、ユリィ様。賢者様がいらっしゃらなければ、国を治めることなんて無理でしょう。
 王子様のどなたかに、ご紹介いただくことはできませんの?」
「無理よ。兄さんたちは私のこと、あんまり好きじゃないし……」
「それは……、困りましたね」
「ほんとう。困っちゃう」
 貢物の配分決めは、昼食の場で行うことになっている。もうそろそろだ。
「そろそろ行かなきゃならないわ。ちょっとでも、宝物が貰えるといいんだけれど。
 賢者の友達はいないけれどね、私、侍従長に聞いてきたのよ」
「まぁ。彼は何とおっしゃいましたの?」
「うん、ちゃんと覚えたもの。
『とにかく麦が大切です。ですが、収穫の季節はまだです。貢物の中に麦はないでしょうから、金を集めるとよいでしょう。金はやがて麦になります』
 こう言っていたわ。一言一句間違いないはず」
 私は得意気に言った。目の前の侍女が、可愛らしく両の手のひらを合わせて笑う。
「それは素敵ですわ。麦がないと、厨房の皆が困ってしまいますもの」
「そうなの?」
「ええ、彼らは仕事に麦を使いますから」
「そういうものなのかしら」
 こうして侍女と会話に興じるのも悪い気分ではなかったが、本当にもう昼食の場へと向かわねばならない。私は後ろ髪を引かれつつ、侍女に目配せする。
 向かいに座っていた彼女は音を出さずに席を立ち、私の背後に回って椅子を引いた。
 話が盛り上がった事もあり、できれば彼女についてきて欲しかったが、私が誰かを連れて行けば、兄たちは良い顔をしないだろう。

 昼食に指定されたのは、大広間という、普段は食事に使わない一室である。入室すると、中央に急遽仕立てられたと思しきテーブルが一つあって、そこに食器の類が用意されていた。部屋の大きさと比べ、随分ちっぽけなテーブルだ。
 残りのスペースは決して遊ばせているわけではなかった。貢物らしき宝が積んである。大きく三つに別けられていて、ドレスに絵や壷、剣と鎧、宝石がそれぞれ山を作っていた。
 勿論、私が兄たちより遅く着席することなど許されないので、部屋には侍女しかいない。私が座る椅子を引いた侍女に話しかけようとしたが、彼女はしっかりと唇を結んでいた。何も教えてやるなと、兄の誰かから言われているのかもしれない。
 程なくして、三兄、次兄、そして長兄がそれぞれ賢者を一人ずつ伴って現れた。配膳を待って、長兄が口火を切る。
「国王様の千六百歳の誕生日に、この大広間が埋まってしまう量の貢物があることは、この国の力強さ、そして僕たちの敬愛すべき父上の偉大さをよく表している」
「確かにな」
「うん、同感です」
「は、はい。私もそう思います」
 兄たちが口々に賛同するので、私も慌てて言った。長兄は続ける。
「昨晩父上は僕たちに、これらの全てを下さった。その上、貢物の別け方については、僕たちでよく話し合って決めよとおっしゃられた。配分に、間違いは絶対にあってはならない」
「その通り」
「ええ、そうですね」
「はいっ、そうです」
 兄たちの会話は拍子を踏むようにするすると行われ、なんとかついていくのがやっとだ。四人が集まっての話合いが、こんなに滑らかに進行するのは初めてのことで、私は驚いていた。
「よって、僕たちがあれこれ考えて失敗してしまわぬように、三賢群に全てお願いした」
「ああ」
「異議ありません」
「え、えっ……。ええと」
 三賢群というと、つまり、長兄の後ろに控える当代北賢者、次兄の後ろに控える当代東の、三兄の後ろに控える当代西のということだ。彼らが話し合って決めたらしい。展開が速すぎて、最早私には何がなんだかわからなかった。
 ちらりと、長兄が北賢者に目配せする。
「では、わたくしめが代表しまして。
 まず、アーサー第一王子は衣類と、絵画、壷などの芸術品を全て。
 ジェフリー第二王子は剣と鎧に始まる武器を全て。
 コーウィン第三王子は宝石と貴金属を全て。
 ユリィ第一王女はそこの、世にも珍しい耳が短い人間を一人。
 以上でございます」
「よし! では、これで会議を終了とする。昼食はもう取ったから、僕はこれで失礼する。これから父上から賜った国をどう統治するか北賢者と話し合わなきゃならない」
「なら俺も、東賢者と」
「僕も西賢者と」
 それはあっという間だった。瞬く間に、兄たちの手のものがそれぞれ、部屋に出来た三つの山を均等に持ち出して行った。
 大広間には私の他、残された兄たち三人分の食事と、やはり手付かずの私の食事と、今の今まで貢物の山に隠れていて見えなかった、耳の短い一人の男が残っていた。
「あー、俺は、駒野ってもんだけど……お嬢さんお名前は?」
「はい?」
「名前。ユリィ王女様で良いのか?」
「え、ええ。そうです。あなたはコマノ?」
「そうだ。よろしく」
 ただ、今まで話した誰よりも、話しやすい人だな、と思った。
 そのときの私は、まさか彼との出会いがステイツ国の全てを変えてしまうなんて、思ってもいなかった。





 夕食の前に、私や兄たち四人は「宣誓」をしなければならない。昼食後に侍女が言伝を持ってきた。
 駒野に良い服を着せる。父上の前で、国を治めることを宣言しなければならないのだ。とにかく隣か後ろに立ってくれる人が欲しかった。侍女はやってくれないだろうから、とにかく彼に頼んだ。彼は承諾した。
 十分とは言えないが、私の中で混乱が鎮まってからは、できる限り駒野に現状を話して聞かせた。とにかく時間がなかった。私も急ぎで一番良いドレスを着て、今は父上の前に跪いている。
 初めの宣誓は長兄だ。それに北賢者が続く。
「私、アーサーは、北賢者の力を借りて、北方をより豊かな、より素晴らしい国とするため、全力を尽くします」
「わたくし、当代の北賢者は、始まりの北賢者が伝えた至高の叡智をもって、全力でアーサー王子に仕えます」
 長兄の堂々たる宣誓に、父上は力強く頷いた。
「私、ジェフリーは――
 次兄が続き、三兄が続いた。私の番はすぐに来た。
 私は立ち上がり、足の震えを誤魔化して一歩前に進んだ。北賢者や、東の、西のがそうしたように、私の後ろでは駒野が立ち上がっていた。
「私、ユリィは、この駒野の力を借りて、南方をより豊かな、より素晴らしい国とするため、全力を尽くします」
 兄たちだけではなく、謁見の間に居た皆々が動揺するのが解った。彼らは間違いなく、耳の短い、珍しいだけの人間に何が出来るものかと思ったに違いない。
 私が言い終わったのを受けて、駒野は口を開いた。
「私、駒野は、主にプラトンの国家、福澤諭吉の学問のすゝめ、孔子の論語、ソクラテス、アリストテレス――その他無数の偉人の知恵をもって、全力でユリィ王女に仕えます」

 ステイツ国における知恵とは、北賢者が伝えし至高の英知、東の、西の、この三つのことを指す。それ以外にない。そして、それらは選ばれし賢者の後裔に口伝で伝えられ、何人も集められた子弟の中には、一生かかっても全ての知恵を自分のものにできない者も居るとされる。
 やがて兄たちは、ただ耳の短い珍しいだけの男が、どれほど価値のある宝であるかということに、気づいていく。気づかされていく。










本のない国